破綻と再起動——そこから学んだ”現実を動かす行動”の本質

19歳の夏、自宅に戻ると、母親の友人からの電報が山積みになっていました。

母が末期がんで危篤状態。
「最後は息子に会わせてから」と、生命維持装置で延命しているという。

病室で目にしたのは、あまりにも残酷な光景でした。
骨が見えるほどに壊死した指、
肉が削げ落ちたような顔、
ほとんど抜け落ちてしまった髪。

かつての母の面影は完全に消え失せ、そこにはミイラ同然の姿しかありませんでした。
意識はほとんどなく、ただ機械の力で生かされているだけの状態。

私は静かに言いました。

「もうええって。こんなん惨めすぎるわ。えげつなすぎんで…はよ楽になりぃ」

そう告げると、私は生命維持装置を全て外しました。
母は、息子の決断とともに、静かにその生涯を閉じました。

通夜も葬式も、まるで他人事のように淡々とこなしました。
そして、何事もなかったかのように神戸を去ろうとした矢先――。

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運命の一夜

おかんの身辺整理も終わりかけのある日、私たち5人は縄張りを荒らしていた”お仕置き”として、ある組織に捕まりました。

ドラム缶とか、コンクリとか、想像を絶する現場でした。

あ~俺たち、南港に沈められるんだ…誰にも見つからんのやろなぁ。 最後はえぐい終わりかたやったなぁ。自業自得やな、しゃ~ないわ。 でも、やっぱりまだ死にたくないなぁ。まだまだやりたいことぎょうさんあんのになぁ。

殺される寸前、一か八かで、私たちは積み上げた莫大な金を差し出す代わりに「命だけは助けてほしい」と、ことの成り行きを見守っていた組織のトップに直談判しました。

組織からすれば“ガキを消して金が入らないより、逃がして5億が入る”のは悪くない取引だったのでしょう。

トップは義理堅い昔ながらのタイプでした。
他の人間なら、金を持ってきた時点で私ら5人はアウト。
そのまま沈められて終わりです。

ただし、「0時を回ってからその顔を見たら即アウト」
そういう条件を飲まされ、私たちは解散することになりました。

深夜のうちに関空へ直行。それぞれが別の行き先を選び、二度と戻らないことを誓いました。

しかし、その別れ際に私たちは「またいつか再会しような」と短絡的な約束を交わしていました。

「しょせん俺ら、まだ少年Aやんけ」

と、心のどこかでは無事にやり過ごせると楽観していました。
けれど私は一抹の嫌な予感を抱えながら、北の大地へ向かう飛行機に乗りました。

仲間たちの最期

別れたあと、4人はどうしても”甘い汁”を断ち切れず、あの危険地帯に舞い戻ってしまいました。
嫌な予感は的中します。

数か月後、私はニュースや後輩からの連絡で”4人が次々と発見された”という話を聞きました。
ゴミ捨て場や川で、変わり果てた姿になって……。

「あいつらなら、もしかしたらうまいこと立ち回るかもしれん」なんて甘い期待は、あっけなく崩れ去りました。

「戻れば殺される」——わかっていても、彼らは戻ったのです。

「俺だけ逃げてきた」と思うと、罪悪感とやりきれない虚しさが押し寄せました。

そこから学んだこと

19歳の私は、形だけ残っていた高校の籍で”卒業”という肩書を得ていました。
1000万円で買った卒業証書かもしれません。

でも、仲間が皆いなくなった今、その紙切れを受け取っても胸に響くものは何もありませんでした。

「なぜ俺だけが生き残ってるんや……」

仲間とともに積み上げた大金はすべて手放して、たった一人で新しい人生を模索するしかありませんでした。

あれだけ”少年法だ””社会は敵や”と嘯いていた自分が、皮肉にも運だけで生き延びた現実。
これこそが最大の罰なのだと思う時期もありました。

しかし、その後の人生を振り返ると、あのとき逃げずにいたら、私も確実に同じ運命を辿っていたはずです。

「これはもう、二度と過去には戻れない」

そう思うと同時に、ほんの少しだけ「違う生き方をしてみたい」という気持ちが芽生え始めました。

現実を動かす”本当の行動”とは

この経験から、私は決定的な教訓を学びました:

暴力や犯罪で得た”勝利”や”金”は、いつか必ず自分を食いつぶす。

少年法を逆手にとり、大人を敵視し、快感に酔った代償は大きすぎました。

今、私がこうして過去を語るのは、決して武勇伝を自慢したいからではありません。

むしろ、「一瞬のうちに破滅する危うさ」を知ってもらいたい。
そして、似たような境遇にある若い人がいたら、どうか引き返せるうちに戻ってほしいと切に願うからです。


次回は「大腸がんと心理学との出会い」について。
絶望の淵からどのように這い上がり、TherActionの着想を得たのか。
その転換点についてお話しします。

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