【要約】
7歳で母から児童養護施設に置き去りにされた私は、やがて”少年A”となって悪の道を歩み始めます。
その後、200億円規模の事業を築き上げた矢先、50億円の負債と末期がんを抱え、底なしの絶望に突き落とされました。しかし、そこで出会った「心理学」が人生の歯車を大きく変えます。いま、過去の全ての経験が苦しむ人々の心に寄り添う力となっています。「もう終わりだと思っていた人生は、何度でも再出発できる」——その確信を、あなたにも伝えたいと思います。
第一章:底辺からの出発

7歳の光――母と見た大阪万博の夢
おかんは尼崎のキャバレーでホステスやって、生きるために必死やったんかもしれないです。
けど、私はその“必死”に巻き込まれる形で、毎晩のようにボコボコにされてました。
夜中に酔っぱらって帰ってきては、
「おのれさえおらんかったら!」
「おのれなんど産まんかったらよかったわ!」
「おのれなんど死んだらええんじゃ!」
って、どす黒い怒声とともに殴る蹴るの暴力。
私は体を丸めて、ただ終わるのを待つしかできなかったのです。
あざだらけの体で、夏のクソ暑い日に長袖ジャージ着て学校に行く日も多くありました。
担任の先生が
「最近、どうしたんや?」
「なんか困ってることないか?」って心配してくれる…
でも、おかんが怖すぎて、何も言えず…
「なんでもない」
「転んだだけ」
そう突っ張り続けるしかありませんでした。
そんなどん底みたいな毎日やのに、ある日、おかんが急に機嫌よう帰ってきて、
私の前でにこーって笑って言うたんです。
「明日、万博行くで!」
正直、耳を疑いました。
「えっ? どこ行くん?」
思わず聞き直したら、おかんは私の両手をぎゅっと握りしめて、興奮した声で言いました。
「万博や!大阪万博に二人で行くで!」
あの悪魔みたいなおかんが、大阪万博?
「ほんまかいな……」って最初は素直に喜べへんかった。
けど、おかんはもう大はしゃぎで、「あれ見ようや! これも見たいわ!」とか、
いろいろ次の日のプランを楽しそうに話してて、めちゃくちゃ盛り上がってる。
その姿見てたら、「嘘ちゃうんやな」「ほんまに行くんやな」って思えてきて、
気ぃついたら私まで飛び跳ねるほどはしゃいでました。
「やっぱり、おかんは俺のおかんや! 俺のこと嫌ってなんかおらんのや!」
心ん中がそう言うてる。
あれだけ毎日暴力受けてたのに、その夜は「うちって、普通の親子なんちゃうか」って思えるくらい、
幸せな気分になってました。
普段やったら、家におるのもイヤでさっさと寝床に逃げ込むんやけど、
その日はおかんと一緒に毛布にくるまって、むちゃくちゃ安心して寝れたんです。
なんやろな、心がふわふわして……あの感覚、今でも鮮明に覚えてます。
万博当日の夢のような時間
次の日、私は朝早くから目が覚めました。
前夜、おかんが「明日は大阪万博行くで!」と言ってくれたからです。
いつもは夜遅くに酔っ払って帰ってくるばかりのおかんが、
朝から元気に起きているなんて、これまで考えられませんでした。
「ほら、早よ支度せな、えらい人混みになるで!」
そう声をかけるおかんは、寝癖すら直さずに楽しそうに笑っていました。
普段なら私を怒鳴り散らしてばかりなのに、その日はなぜか穏やかで、声のトーンまでやわらかい。
「本当に万博へ行くんだ」——わずか一晩で私の心に芽生えた疑いが、急速に消えていきました。
家を出るとき、おかんは私の手をぎゅっと握りしめました。
「よっしゃ、ほな行こか!」
そのまま二人で駅へ向かい、電車を乗り継いで万博会場へ。
朝の光がまぶしく、まだ少し寝不足の私でしたが、胸は高鳴っていました。
会場のゲートをくぐった瞬間、目に飛び込んできたのは大きなオブジェやカラフルなパビリオン、人の波でした。
見たことのない世界に足を踏み入れたような、不思議な感覚。
私は思わずおかんの顔を見上げました。
すると、おかんも「めちゃくちゃすごいなぁ!」と言いながらにこっと笑っていたんです。
あの笑顔を見て、私は胸がじんとなりました。
おかんは私の手を引っ張って、次々とパビリオンを回っていきます。
「こっち行こか!」
「あんた、あれ見たいんやろ?」と。
いつものおかんとはまるで別人でした。
酒臭い息もなく、怒鳴る声もない。
ただテンション高く
「えげつなぁ、ごっつい未来みたいやん」と興奮するばかり。
私たちは太陽の塔を遠目に見ながら、なんとなく記念写真を撮りました。
おかんが誰かに声をかけて撮ってもらったんですが、普段なら「なに見とんねん」と睨むところを、
「すんません、写真撮ってもらえますか」と丁寧にお願いしていました。
そのやりとりだけでも、私には信じられない光景でした。
会場の屋台で焼きそばやアイスクリームを食べながら、
「あんた、どれが一番おもろかった?」と聞かれたときは、つい何も言えなくなってしまいました。
どれも初めて見るものばかりで、楽しいし、びっくりするし……
でも一番は、そんなふうに私に話しかけてくれるおかん自身が新鮮でたまらなかったのです。
「ほんまはな、あんたにこんなん見せてあげたかってん。ずっと我慢ばっかりさせてもうてかんにんな」
そう言いながらおかんは、私の背中をぽんぽんと叩きました。
どう答えていいか分からず、私は黙って地面を見つめました。
ただ、そのときの心はほんのり温かかったのを覚えています。
あれほどつらく当たられてきたことや、毎晩のように殴られていたことも忘れてしまいそうなほど、
あの時のおかんは優しく感じられました。
暮れかかった空を見上げると、会場のライトが光り出して、さらに幻想的な雰囲気になっていきました。
おかんは「そろそろ帰ろか。人多いから、ゆっくり帰ろう」と言って、私の手を離しませんでした。
帰りの電車の中でも「ほんまに楽しかったなあ」「また行けたらええのにな」と笑い合い、
まるで普通の親子みたいに過ごせました。
あれは今振り返っても、本当に夢のような一日でした。
母親がホステスとして必死に働いていた背景も、
その後また地獄のような日々が始まることも、
このときの私には知る由もありません。
とにかくこの日だけは、
暴力を振るうあの姿も、罵声を浴びせるあの声もまったく想像できないほど、
おかんは優しくて明るい人に見えたのです。
その夜は帰り道で手を引かれて、電車を乗り継いで、駅からの道を歩きながらも、ずっとおかんと話していました。
「今日見たあれすごかったな」「ほんまに外国みたいやったな」……些細な会話が、まるで宝物のように思えました。
家に着くころには私の目はとっくに閉じかけていて、おかんの肩にもたれかかりながら眠りそうになっていたのを覚えています。それくらい、私には忘れられない“光”の時間でした。
夏の夕暮れの風、万博のにぎわいの残響、そして穏やかな母の表情——あの一日は、幼かった私にとって奇跡そのものでした。
家に戻ってからもベッドに入るまで、ずっとその余韻に浸っていたんです。
しかし、光は続かない
ただ、残念ながらこの“光”が続くことはありませんでした。
私の人生において、この大切な思い出は、それから先に訪れる暗闇を強調するような対比として刻まれていくことになります。
でも、あの日だけは確かに、おかんも私も、笑顔でいられたんです。
あれが私にとって、はじめて「親子」というものを感じられた瞬間だったのかもしれません。
希望から一転、暗闇へ

あの大阪万博で夢のような一日を過ごしてから、まだ2週間しかたっていない、ある日。
7歳の私にとって、あれは今まで知らなかった“幸せ”そのものだった。
「また一緒に遊びに行こうな」と、おかんは笑っていた。
私は、もしかしたらこれからは普通の親子になれるかもと心の底から期待していた。
ところが、この日の朝、おかんが急に「ついてき」と言いながら私の手を引いた。
行き先はよく分からないけれど、また一緒に出かけられるなら嬉しい。そんな思いでついて行った。
でも着いたのは、明らかに雰囲気の重い建物の一室だった。
電灯は薄暗く、壁もくすんでいて、ただならぬ空気が漂っていた。
衝撃の別れ
「ここで待っとき」
それがおかんの最後の言葉。
部屋の奥から、おかんがわめく声と大人たちの慌てた声が響き渡る。
少し離れた場所で聞くそのやり取りには、不穏な空気しか感じ取れなかった。
しばらくすると、足音がバタバタと廊下を走り抜け、やがて静かになった。
「おかん?」と呼びかけても返事はない。
何かが胸の奥で軋んだ。まさか、あのおかんが――。
そのとき、知らないおじさんが入ってきて、言いにくそうにこう告げた。
「ここは児童養護施設ちゅうところでな。おかんやおとんのいない子らが暮らすとこや。
残念やけどな…お前のおかんはもう戻ってこん。今日からここで暮らすんやで」
万博での楽しい記憶が、頭の中から一気に追い出されていく。
なんなん?
どうして?
どないなってんの?
あんなに笑っていたおかんが、どうして私を置いて行ってしまったんだろう。
まるで底なしの真っ暗闇に、ぽんと落とされた気分だった。
施設でのいじめと“兄弟”たち
新しい生活が始まると、すぐに周りの子たちに
「あいつ、おかんに捨てられたんやて(笑)」とヒソヒソ言われ、
冷たい視線が降り注いだ。
子どもたちの噂は怖いくらい早い。
施設だけでなく、学校でもあっという間に広まり、いじめや暴力まで始まった。
心が壊れそうになった。全部おかんのせいだ、って思わずにはいられなかった。
だけど、救いがあった。
私には家の近所に同和地区の友達が4人いて、
私を合わせた5人グループを“兄弟”みたいに呼び合っていた。
施設に入ったと知っても、兄弟たちだけは決して私をバカにしなかった。
「俺らは兄弟みたいなもんや! 誰かになんかあつたら、みんなで守るんや!」
彼らはそう豪語し、実際に学校のいじめっ子や施設の上級生とケンカして、私を守ってくれた。
場合によっては向こうに土下座をさして詫びを入れさせることさえしてくれた。
「いつもどおり」の付き合いを続けてくれる彼らのおかげで、
私は少なくとも昼間は孤独にならずにすんだ。
夜、2段ベッドで感じる孤独
それでも、夜になると全てが変わる。
施設の2段ベッドに横になり、窓の向こうに浮かぶ月を見つめると、強烈な孤独感が私を襲ってきた。
昼は兄弟たちのおかげで笑っていても、夜には
「ああ、捨てられたんだ」
「おかんに裏切られたんだ」
という現実が容赦なく押し寄せてくる。
眠る前の暗闇で、私は必死に涙をこらえようとする。
だけど、心の奥底で渦巻く悲しみは、そんな我慢を簡単に突き破ってしまう。
涙が止まらなくて、枕をぎゅっと噛んで声を殺し、ふとんの中で震えた。
万博で見たあのおかんの笑顔は、いったい何だったんだろう。
どうしてわずか2週間でこれほどひどい現実に変わってしまうのか。
答えなんて分からない。
ただ、7歳の私には大人の事情なんて知る由もなかった。
そして、数年後におかんが“まともな職”を得たからと施設から私を引き取ることになる。
でも、そのときの私は「今さらなんやねん」としか感じられなかった。
たった一度の笑顔と夢を与えてくれた人が、私をあっさり置き去りにした。
もう誰も信じられない。
おかんも、他の大人も、全部嘘っぱちや。
そう思うようになり、私は固く心を閉ざしていく。
それでも、“兄弟”たちの存在があったから、私は完全に壊れずにいられた。
昼間は彼らが笑わせてくれたから、なんとか生きていけた。
夜ごとに繰り返す孤独感は、私自身が抱えるどうしようもない痛みだったけれど、
少なくとも「自分は一人じゃない」という事実が、心のどこかを支えていた。
夜が明ければまた、兄弟たちが
「おはよう! 今日は何したろか?(笑)」と声をかけてくれる。
それを心の支えにして、また一日が始まる。
言葉では言い表せないほど心がしんどいけれど、あの4人と笑い合う時間だけは、
私にとってかけがえのない救いだった。
あのころの私を支えてくれたのは、裏切られた経験と、それを埋めるようにしてくれた友人たち。
そして、夜に見上げる月の光が、どこか淡くもやさしく感じられたのを今でも思い出す。
施設での生活は苦しかったし、「おかんに捨てられた」という痛みは簡単に消えてくれなかった。
それでも、ほんの少しだけ前を向いて生きようと思えたのは、兄弟たちのおかげでした。
昼間は一緒に笑い、夜は涙をこらえる。それが、7歳の私の精一杯の生き方だったんです。
小学生高学年、悪の入り口
児童養護施設から戻り、小学の高学年になった頃には、私はすでに
「どうせ世の中なんて嘘ばかり」
「人を信じるだけ無駄や」
という暗い思いを抱えながら生きていました。
そんな私を唯一“仲間”として受け入れてくれたのが、近所の同和地区の4人の同級生たち。
昔から“5人兄弟”みたいな絆でつながっていた連中です。
私たちは毎日のように小さな悪さを繰り返しました。
近所のスーパーや文房具屋で万引き、盗んだ原チャリで町を走り回り、ケンカ三昧の日々。
とくに私がよく口にしていたフレーズが、「しょせん人殺しても少年Aや!」でした。
自分が少年法に守られているという歪んだ自覚が、恐れや罪悪感をどんどん麻痺させていくのです。
中学入学、とことん落ちる決心
中学に入ったとき、私たちはある決心をしました。
「どうせこの世に正義なんかない、落ちるとこまで落ちたれ」
その延長で、
「人を殺してもしょせん少年Aや。名前も出ん。いつでもやり直しきくやんけ」と
口癖のように言い合うようになった。
いま思えば狂気じみた発想ですけど、
当時の私には、それこそが世の中をナメてやる唯一の手段やと思えていました。
夜な夜な5人で集まっては、「今日は何を盗る?」「誰にケンカ売る?」という相談ばかり。
スーパーや商店を荒らすなんて当たり前になっていき、次第にエスカレートしていきました。
盗んだ原チャリやバイクを改造して走り回るだけじゃなく、ヤクザや暴走族から金を奪い、
ときには拳銃を手に入れたことさえある。
同級生の女の子をそそのかして売春させたり、薬の売買にも手を染めたりと……
想像できる限りの犯罪をし尽くしたという感じでした。
その結果、中学3年になる頃には、押し入れが札束でパンパンになっていました。
子どもの身分でありながら、2~3千万近い大金が転がっていたんです。
心のどこかで「これはヤバい状況なんじゃ……」と思う自分もいたけど、
止められる大人なんて誰一人いない。だからこそ余計に暴走していきました。
おかんへの脅し、家からの追放
そんな中で、私が一番最初に“排除”しようと考えたのが、おかんでした。
2週間で私を捨てたくせに、都合よく戻ってきて「一緒に暮らそう」とシレッとほざいたのが許せなかったのです。
だから中学に上がると同時に決心したんです。地獄の底まで落ちたると。
「ワシらはとことんやるで。あんた邪魔や。
今すぐ出てってくれるか? それともここでワシに殺されたいか?」
そう言って、おかんを本気で威嚇しました。
おかんは昔、私に散々暴力をふるってきたくせに、今や逆に怯えた目で私を見ている。
「しょせん人殺しても少年Aや!」
この口癖が、おかんの心を決定的に折ったんだと思います。
鍵を静かにテーブルに置き、何かを諦めるような表情で、おかんは黙って出て行きました。
私は「よっしゃ!」と胸がすくような思いだった反面、心の片隅には得体の知れない虚しさを感じていたのを覚えています。
決裂と犯罪の日々、それでも始まる“次の章”
こうして、12歳の私はおかんを追い出し、兄弟と組んだ“犯罪拠点”を手に入れました。
小学生高学年から継続してきたヤンチャは、中学でさらに加速。
バイク・原チャリの窃盗や万引き、ヤクザへの襲撃、拳銃や薬物まで——普通の中学生とはかけ離れた世界。
笑ってしまうほどめちゃくちゃです。
それでも、心のどこかでは「このままだと死んでまうんとちゃうか」という不安が拭えなかった。
たった一度でも愛を感じられた“万博の日”、児童養護施設で泣き続けた夜、兄弟たちと笑い合った日々……
そういう光が頭をよぎるたび、胸が締め付けられる気がしていました。
しかし、私たちの暴走は止まらない。
人を信じないことを貫くためには、社会を敵に回すことが一番楽やったからです。
あのころの私は、確かに底無しの闇の中にいたと思います。
――でも、それでもこの物語は、まだ序章にすぎません。
私が海外に出て、命の危険を顧みない旅をすることで、「どうにもならない」と思っていた人生の歯車がわずかに変わり始める。
おかんを許すかどうか、そんな次元の話じゃない。
もっと別の角度から、人生や人間の価値を見つめ直す転機が訪れるのです。
そのきっかけは何なのか、どうやって私は地獄から這い上がるのか。
12歳の時点では、まったく想像できませんでした。
ただ、壮絶な悪の限りを尽くした先にこそ、思いも寄らない可能性が待っている——人生とは、そういうものだったのかもしれません。
少なくとも、この「12歳の決裂」は、私の人生の大きな分岐点でした。
あそこでおかんを追い出さなかったら、あるいは兄弟たちと連れ添っていなかったら……その先に待っていた物語は、また違っていたかもしれません。
そう思えるほどに、あの日の家の中の空気は張り詰めていて、“本気”が交錯していた。
私にとってそれは、どうしようもない狂気と孤独を抱えた少年期の終わりであり、新たな混沌への入り口でもあったのです。
しょせん人殺しても少年A――16歳の暴走
15歳を過ぎ、地元で“最低偏差値”の高校に入学した。だが、勉強する気はない。
最初から校長先生に“ある交渉”をしに行った。
「これ、3年分の学費とちょっとしたお礼ですわ。
海外に行くんで、途中で死ぬかもしれん。でも無事に帰ってきたら、卒業だけはさせてください」
現金をドサッと積まれた机を見た校長が、しばらくの沈黙のあと無言でうなずいた光景を、今でも覚えている。
これで「留年なし、退学なし、3年後の卒業証書だけ約束」という奇妙な契約が成立したわけだ。
自分でも「(どこまで歪んどんねん)」と思いつつ、16歳で飛行機に乗った。
バックパッカーと“逃避の連鎖”

16歳の夏、関西の空港から飛び立ち、まずはアメリカの大都市へ。
英語は挨拶程度しか知らない。
タクシーの運転手に「ニューヨーク!GO! GO!」と勢いだけで街の中心に降ろしてもらい、そこからはバックパッカーとして旅を始めた。
46か国を渡り歩く中で、命の危険を感じたのは一度や二度ではない。タイからカンボジアに旅していた際、10日間飲まず食わずでひたすら国道を歩いたときもあった。脱水症状で死にかけて道端に倒れているところを現地の方に救ってもらったこともあった。
帰国のたびに地元の兄弟たちと合流しては、裏社会の仕事で金を稼いだ。
「ヤクザも警察も怖ないわ」と豪語する姿は、ただの虚勢だったのかもしれない。 それでも私たちは5人で協力し、大金を手にしてきた。
母の最期――生命維持装置を外した決断
19歳の夏、自宅に戻ると、母親の友人からの電報が山積みになっていた。
母が末期がんで危篤状態。「最後は息子に会わせてから」と、生命維持装置で延命しているという。
病室で目にしたのは、あまりにも残酷な光景だった。骨が見えるほどに壊死した指、肉が削げ落ちたような顔、ほとんど抜け落ちてしまった髪。かつての母の面影は完全に消え失せ、そこにはミイラ同然の姿しかなかった。意識はほとんどなく、ただ機械の力で生かされているだけの状態。
私は静かに言った。
「もうええって。こんなん惨めすぎるわ。えげつなすぎんで…はよ楽になりぃ」
そう告げると、私は生命維持装置を全て外した。母は、息子の決断とともに、静かにその生涯を閉じた。
通夜も葬式も、まるで他人事のように淡々とこなした。
そして、何事もなかったかのように神戸を去ろうとした矢先――。
5億で命を買う――0時までに消えろ
おかんの身辺整理も終わりかけのある日、私たちは縄張りを荒らしていた“お仕置き”として、ある組織に捕まった。
ドラム缶とか、コンクリとか、想像を絶する現場だった。
あ~俺たち、南港に沈められるんだ…誰にも見つからんのやろなぁ。
最後はえぐい終わりかたやったなぁ。自業自得やな、しゃ~ないわ。
でも、やっぱりまだ死にたくないなぁ。まだまだやりたいことぎょうさんあんのになぁ。
殺される寸前、一か八かで、私たちは積み上げた莫大な金を差し出す代わりに「命だけは助けてほしい」と、ことの成り行きを見守ってた組織のトップに直談判した。
組織からすれば“ガキを消して金が入らないより、逃がして5億が入る”のは悪くない取引だったのだろう。
トップは義理堅い昔ながらのタイプだったのが幸いした。
他の人間なら、金を持ってきた時点で私ら5人はアウト。そのまま沈められて終わりである。筋を通す昔ながらの漢であったので、素人やガキ相手でも約束は守ると言って開放してくれたのは奇跡としか言いようがない。
ただし、「0時を回ってからその顔を見たら即アウト」
そういう条件を飲まされ、私たちは解散することになった。
深夜のうちに関空へ直行した。それぞれが別の行き先を選び、二度と戻らない。
しかし、その別れ際に私たちは「またいつか、この街で再会しような」と短絡的な約束を交わしていた。
「しょせん俺ら、まだ少年Aやんけ」 と、心のどこかでは無事にやり過ごせると楽観していた。
けれど私は一抹の嫌な予感を抱えながら、翌朝一番で北の大地へ向かう飛行機に乗った。
なぜ俺だけが生き残った――仲間4人の死
仲間が次々と消えていく
別れたあと、4人はどうしても“甘い汁”を断ち切れず、あの危険地帯に舞い戻ってしまった。嫌な予感は的中する。
数か月後、私はニュースや後輩からの連絡で“4人が次々と発見された”という話を聞いた。ゴミ捨て場や川で、変わり果てた姿になって……。
「あいつらなら、もしかしたらうまいこと立ち回るかもしれん」なんて甘い期待は、あっけなく崩れ去った。
「戻れば殺される」―― わかっていても、彼らは戻ったのだ。
「俺だけ逃げてきた」と思うと、罪悪感とやりきれない虚しさが押し寄せた。
生き残ってしまった自分
19歳の私は、形だけ残っていた高校の籍で“卒業”という肩書を得ていた。
1000万円で買った卒業証書かもしれない。
でも、仲間が皆いなくなった今、その紙切れを受け取っても胸に響くものは何もない。
「なぜ俺だけが生き残ってるんや……」
仲間とともに積み上げた大金はすべて手放して、たった一人で新しい人生を模索するしかなかった。
あれだけ “少年法だ” “社会は敵や” と嘯いていた自分が、皮肉にも運だけで生き延びた現実。
これこそが最大の罰なのだと思う時期もあった。
しかし、その後の人生を振り返ると、あのとき逃げずにいたら、私も確実に同じ運命を辿っていたはずだ。
「これはもう、二度と過去には戻れない」
そう思うと同時に、ほんの少しだけ「違う生き方をしてみたい」という気持ちが芽生え始めた。
二度と繰り返させないために

12歳で母を追い出した家、15歳で荒れ狂った中学生活、16歳からの海外逃避行、そして19歳で母親と仲間4人を失う――。
どれも“生々しすぎる”思い出だが、これが私の歩んできた道だ。
そして、そこから得た教訓はひとつ
暴力や犯罪で得た“勝利”や“金”は、いつか必ず自分を食いつぶす。
少年法を逆手にとり、大人を敵視し、快感に酔った代償は大きすぎた。
私がこうして過去を語るのは、決して武勇伝を自慢したいからではない。
むしろ、「一瞬のうちに破滅する危うさ」を知ってもらいたい。
そして、似たような境遇にある若い人がいたら、どうか引き返せるうちに戻ってほしいと切に願う。
「どうにもならない」と思っていても、人は必ず別の道を見出せる――
そう思えるようになったのは、この経験を踏まえて痛いほど学んだからだ。
もしあなたが今、家に居場所がなくても、社会を恨んでいても、
「闇に落ちる」以外に選択肢がないわけではない。
自分がこの先どう生きるかは、必ずしも過去の境遇だけで決まらない。
大事なのは、“狂気”や“憎しみ”に絡め取られる前に、誰か一人でも信じられる人を探すこと。
そして自分自身にも見切りをつけないことだ――私がこんな形でしか伝えられないのは悔しいが、これが本音だ。
結局、私はただ運が良かっただけかもしれない。
それでも、仲間4人の死を無駄にしないためにも、過去をあえて振り返って語っている。
誰かが同じ道を辿る前に、一刻も早くその危険に気づいてほしいからだ。
少なくとも言えるのは、暴力と犯罪の先には、破滅しかない。
それだけは、この物語で痛いほど証明された真実だと思う。
この物語は、12歳から19歳までの私の“闇”と“逃走”の記録だ。
しかし、“もうどうにもならない”状況だったはずが、ふとした拍子で歯車が変わり始めることもある。
人生にはそんな一瞬が存在する。
「もうどうにもならんと思うことのほとんどは、実はどうにかなる」
私はこの言葉を信じて、先へ進んでみようと思った。
少年Aで終わらせるつもりだった人生が、思いもよらず続いてしまったのだから――。
それならば、過去から目を背けずに自分の生き方を探し、同じ誤ちをくり返さない道を模索するしかない。
仲間の死を無駄にしないためにも、社会に小さな光を残すためにも。
第二章:成功と転落

普通の家庭に憧れて――21歳で結婚、そして事故
逃げ場のない選択
「もう、戻れば死ぬ。」
そう思いながら私が飛び乗った飛行機は、なぜか北海道行きの便だった。
本当は沖縄や石垣島に行きたかったのに、どこも満席で、「北なら空いてるかな」という軽い気持ちが、人生の大きな転機に繋がってしまった。
当時の自分は“少年A”で終わるだろう、いずれ誰かに殺されるか自分で命を絶つしかない――そんな未来予想図しか描けなかった。
でも、兄弟が次々に死んでいく報せを受け、心の中で彼らを弔うことしかできなかったとき、「ここで終わりではダメだ」と腹をくくったのだ。
気づいてしまった“普通”への違和感
そして北海道の地で、私は21歳の若さで結婚し、2人の子どもを持つ“普通の家庭”を築いた。
毎晩のように怒号が飛び交い、暴力が日常だった幼少期。
施設では冷たい視線と「捨てられた」という言葉の刃に晒された日々。
そんな過去があったからこそ、温かい家庭への憧れは人一倍強かったのかもしれない。
父親という存在を知らずに育った反動もあっただろう。
“当たり前の幸せ”――それは、幼い頃からずっと心の奥底で渇望し続けていたものだった。
真っ白な壁をベースにした新築、妻の優しい笑顔と、無邪気にはしゃぐ子どもたちの声が響き渡る空間は、私にとって眩しいほどの光景だった。夕食時には、他愛もない話で食卓が賑わい、子どもたちが描いた絵が壁に飾られている。
そんな何気ない日常の一つひとつが、かつての私には想像もできなかった、温もりに満ちたものだった。
しかし、日が経つにつれて、その温かさの中に、言いようのない違和感が芽生え始めた。
食卓を囲んでいる時、妻や子どもたちの笑顔を見ながら、心のどこかで「本当にこれでいいのか?」という問いかけがこだまする。かつての悪友たちとのスリルに満ちた日々、海外を放浪していた時の予測不能な出来事、裏社会で大金を動かしていた時の緊張感。それらと比べると、この平穏な生活は、まるでぬるま湯のように感じられた。
もちろん、暴力や犯罪が恋しいわけではない。
ただ、あまりにも穏やかで、刺激のない毎日は、私の魂が求めているものとは違うような気がしていたのだ。
子どもたちが「パパ!」と駆け寄ってくる。
その小さな手を握り返すとき、喜びと共に、なぜか拭えない不安が胸をよぎる。
「俺は本当に父親になれるのか?」
「こんな幸せな生活が、いつかまた壊れてしまうんじゃないか?」
過去の自分が犯してきた数々の過ちが、幸せな現在を汚してしまうのではないかという恐怖が、常に心のどこかに潜んでいた。 かつてのように夜の街を徘徊するわけでもない、誰かを脅すわけでもない。
ただ、静かに時が過ぎていく中で、自分がこの場所に馴染めていない、まるで借り物の衣装を着ているような、そんな居心地の悪さを感じていた。
妻との会話も、次第に表面的になっていったのかもしれない。
「今日は保育園でこんなことがあったよ」
「明日、買い物に行かないとね」
普通の夫婦なら当たり前の会話だが、私にとっては、どこか他人事のように感じられた。
過去の壮絶な経験を妻に打ち明けることができなかった。
打ち明けたところで、理解してもらえるのだろうか、受け入れてもらえるのだろうか。
そんな不安が先に立ち、結局、心に蓋をして、当たり障りのない言葉を交わすだけの日々が続いた。
夜、寝静まった子どもたちの寝顔を見つめていると、愛情はもちろん感じる。
しかし、その奥には、複雑な感情が渦巻いていた。
「俺は、この子たちの父親として、本当にふさわしい人間なのだろうか?」
「いつか、自分が過去に犯した罪が、この子たちを傷つけることになるのではないか?」
そんな自問自答を繰り返すうちに、眠りにつくのが怖くなる夜もあった。
私が心の底から望んでいたはずの“普通の家庭”。
しかし、いざそれを手に入れてみると、過去の自分が作り上げた壁が、今もなお、私をその内側から隔てているようだった。
突然の大事故
話は結婚当初に戻る。
新婚旅行から帰ってきてたった2週間後、妻を後ろに乗せ、海岸線をバイクで走る。
吹き抜ける潮風に、ささやかな幸福をかみしめていたその矢先――
対向車が飲酒運転で突然、目の前で右折してきたのだ。
慌てて妻を振り落とす形でかばったが、私自身は交わしきれず、追突。
妻は右手骨折。私は右足が体に15センチほどめり込み、右腎臓破裂、そして大量出血で心肺停止状態に陥った。
「もうダメだ」――遠のく意識の中でそう感じた。
けれど奇跡的に息を吹き返し、生死の境から引き戻された私。
気づけばベッドの上、そして半年後には自力で歩いて退院していた。
しかし、大量輸血の影響でC型肝炎を発症し、これから20年もの長きにわたり苦しめられることになるとは、
そのとき誰も思わなかった。
命を取りとめたものの、私の心には奇妙な空洞が残った。
“当たり前”の家族の団らんを守ろうと必死だったのに、死の淵を覗いた恐怖と、どうしようもない孤独感が胸を締めつける。
結局、私には家の中より外の世界、さらには“稼ぐこと”が性に合ってしまうのだろうか。
それを裏付けるように、退院後にサラ金業界で上り詰めた私は、20歳で入社した会社で21歳には店長、22歳でブロック長、26歳で取締役部長――年収3000万円という驚異的スピード出世を遂げる。
だが、家で待つ子どもたちの姿はいつも遠く感じられた。
あれだけ「父親が欲しい」と強く願っていたはずなのに、自分が“父”になった瞬間に、なぜこんなにも居場所がわからなくなるのか。
妻とも会話が減り、家に帰ると気まずさを持て余す日々。
挙げ句の果てに、初めての参観日に行った教室で、数か月前に私が激しく取り立てを行った“チンピラもどき”の男性と鉢合わせする。
自分の娘とあの男の息子が同級生なんて……顔から血の気が引いた。
「娘の存在がバレたら、何をされるかわからない」
そんな恐怖が胸を締めつけ、仕事へのモチベーションが一気に揺らいでいく。
稼げば稼ぐほど、裏社会とも近い客層に接点が増える――そんな業界に、家族を巻き込みたくない。
そう悟ったとき、私は28歳で退職を決意した。
見つめ直す“家族”と“自分”
「明日にでも辞めて」――妻があっさりと言ってくれた言葉に、私は一瞬、驚いた。
3000万円もの年収を捨てる決断は容易ではない。
だけど、そのときばかりは不思議と後悔より“安堵”が勝っていた。
死線を越え、C型肝炎を抱えた身体、そして形だけの“普通”を手にしてなお虚無感に苛まれていた心。
私の人生には、何かもっと大切なものがあるのではないか――そう感じていたのかもしれない。
自分でも気づかないうちに、過去の“荒稼ぎ”だけではない、新たな価値観を手に入れていたのだろう。
それは、家族を守りたいという気持ちであり、自分自身の命と居場所をもう一度見つめ直す葛藤でもあった。
死ぬか生きるかの瀬戸際を何度もくぐり抜け、人としての感情が壊れかける一方で、
“誰かに必要とされたい”“家族を守りたい”という渇望は消えなかった。
私は28歳で、人生の大きなステージを一旦幕引きし、新たな道に踏み出す。
その先に待ち受けるものは何か――それは、これまでの経験が教えてくれるはずだ。
「普通の家庭」とは何か
「父親の役割」とは何か。
答えはまだわからない。
けれど少なくとも、病気を抱え、死を乗り越え、心に空っぽを抱える私だからこそ、
“本当の幸せ”を探す旅に出られるのかもしれない。
そしてその旅の始まりこそが、“退職”という決断だったのだと、今なら言い切れる。
ここから先の物語は、再び波乱に満ちた道のりを予感させる。
だが、かつて「もう、戻れば死ぬ」と腹をくくった自分がいる。
ならば、どんな嵐も越えられる、そう信じて歩むしかないのだ。
「人生はいつだって、紙一重。だけど、紙一重だからこそ、どこででもやり直せる」
かつての少年Aだった私は、そう自分に言い聞かせながら、新しい一歩を踏み出す。
またゼロから――木札ストラップで這い上がる
「自分で起業するなら、何ができる?」
そう自問していた私の目に、ふと飛び込んできたのはよさこい祭りの派手なチラシだった。
――踊り子たちの衣装、チームごとの想い。そこにチームロゴを刻む木札を貼り付けて、携帯ストラップにしたらどうだろう?
この瞬間、ただの思いつきが人生を大きく変えていく引き金になるとは想像もしていなかった。
夢中で駆け上がる快感
私はパソコンを駆使し、オリジナルの木札ストラップを完成させると、すぐさま動き始めた。
よさこい祭りの参加チームにサンプルを配り、さらに携帯ショップにはノベルティとして提案――反応は驚くほど上々だ。
「あれよあれよ」という間に注文が殺到し、売上はわずか数か月で2千万円を突破。
自宅の一室でこつこつと作った木札ストラップが、ここまで人々の心を掴むとは……高揚感に胸を震わせながら、私は必死に手を動かし続けた。
だが、その成功が命取りとなった。
一人で全てを抱え込み、利益を追求するあまり、作業場の換気も疎かになっていた。
ある日、突然の激しい咳と肺の痛み。病院で診察を受けると、エポキシ樹脂とシンナーによる重度の中毒症状。皮膚も深刻な状態だった。
「このまま作業を続ければ、命に関わります」
医師の厳しい診断を受け、即日入院となった。呼吸困難に襲われる日々、皮膚の痛みに耐える夜。治療は半年に及んだ。
絶望の廃業と、それでも消えぬ”企画屋”の灯
退院後、待っていたのは厳しい現実だった。注文は山積み、携帯ショップとの大口契約も反故に。
信用を失った取引先からは賠償を求められ、謝罪と示談金で何とか収めたものの、もはや事業の継続は不可能だった。
――せっかくつかんだ数千万の売上、華々しい「成功者」の名声は、あっという間に泡と消えた。
だが、不思議と心が折れきらなかったのは、”企画をカタチにする”楽しさを知ってしまったからだ。
自分のアイデアで人々の喜びを生み出す――その熱狂をもう手放せない。
私は再び起業を決意し、今度は他業種の企業に対して「売上アップのアイデア」を提供するビジネスに挑んだ。
誰も考えつかない新商品開発やWEB通販の立ち上げをサポートし、月商2000万円を超えるヒット商品も次々と生み出す。外面から見れば、またしても”成功者”の姿がそこにあった。
家族の崩壊と取り返せない時間
けれど、いつしか家庭は置き去りに――というより、私自身が“仕事”に逃げ込んでいたのだ。
家にいると落ち着かない。子どもが学校に通う平日でも、「ハワイ行くぞ」と急に連れ出したり、
「ディズニー行くぞ!」とフロリダにあるディズニーワールドに飛んだり。
子どもたちは笑顔で喜ぶが、妻は呆れながらも必死に反対していた。それなのに、私はまるでそれを聞かない。
“家族を大切に”などと言いながら、現実の私は振り回すだけ振り回し、何も聞こうとしなかったのだ。
やがて妻からのひと言――
「もう別れましょう。このままだと子どもたちはまともに育たない。あなたに子育ては無理だと思う。」
冷静に考えれば、まさにその通りだったのかもしれない。
子どもたちは妻に引き取られ、自宅やWEBショップも妻名義になり、38歳で離婚。
気づけば、華々しく成功したはずの“企画屋”は、なぜか何もかも失っていた。
次なる“引き”と一筋の光:すべてを失ったからこそ
「もう必要ないものは全部手放せ」
――まるで神様がそう囁くかのように、私の元から家族も事業も財産も離れていった。
とても耐えられない喪失感に襲われる一方で、不思議と胸の奥に残る火種は消えなかった。
“アイデア”と“人を喜ばせたい”という欲求――それだけは、まだ私の魂を支えていた。
現実には何もない。家族の笑い声も、賑わう通販のサイトも、もう私の手元にはない。
しかし、ゼロになったからこそ、見えてくるものもある。
廃業と離婚――二度の「どん底」を体験した私だからこそ、何度でも立ち上がるしかないのだ。
そのときの私はまだ知らない。このあと訪れるさらなる波乱に対して、自分がどう立ち向かうのかを。
だが少なくとも、“企画屋”として生きる道を捨てるつもりは、微塵もなかった。
木札ストラップで得た栄光と挫折。再起をかけた新ビジネスで築いた成功と、家庭の崩壊。
すべてを失った今、私の人生はまるでマイナスから再スタートのように見える。
けれど、アイデアがどれほどの可能性を秘めているかを痛感したからこそ、もう一度だけ挑戦しようと心に誓う。
「あのとき見た、あの人たちの笑顔を、もう一度自分の手でつくりたいんだ」
木札ストラップで味わった高揚感や、人を喜ばせる瞬間の輝き。
そんな感覚を再び得るために、私はこの荒れ果てた道の先へと足を踏み出すのだ。
そう――“すべてを失った”と言いながら、まだ失っていないものがある。
それは、自分の命と、湧き上がるアイデア、そして諦めきれない“誰かを幸せにする”という情熱。
だからこそ、物語はここで終わらない。
むしろ本当の波乱は、これから始まるのかもしれない。
「何度でもゼロからやり直せるはずだ――そう自分を信じて、私は再び歩き出す。」
新天地、そして eBayという“可能性”

独り身で挑む新たな挑戦
離婚という大きな代償を払った私は、38歳でまっさらな“独身”に戻った。
すべてを失った喪失感と、何もないところからやり直せるという妙な解放感――その二つが入り混じるまま、私は関東へ移り住んだ。
そこにはかつてのように大きな人脈やコネこそないものの、さまざまな業種から“裏方”としての仕事を頼まれるチャンスが転がっていた。
コンサル、企画提案、販促ツールの制作……自宅の小さな部屋にパソコンを並べ、黙々と作業を続けていた。
孤独だが、自由。そんな感覚が、このときの私を支えていたのかもしれない。
40歳になったある日、ネットの噂で「海外オークションが熱い」と耳にする。
――eBay。日本の珍しい製品やオタクグッズが高値で取引されるらしい。
半信半疑のままアカウントを作り、とりあえず手元にあった日本製品を出品してみたところ、あっという間に定価の2~3倍の値段で売れていった。
「嘘やろ……?」
と思ったのもつかの間、次々と海外バイヤーからのメッセージが届く。
その爆発的な売れ行きに、私はかつての「アイデアと行動力」でのし上がった日々を思い出し、胸が熱くなった。
「在庫を抱えないならリスクも少ない。もっと大きくできるかも……」
私は瞬く間に“無在庫転売”という仕組みを編み出す。
Amazonプライムの商品を、eBayに出品――注文が入り入金の確認ができたらAmazonから購入して発送する。
ノーリスクハイリターン、大きな利益を生み出す仕組みができあがったのだ。
「また、すごい金が動き始めてる……」
久しぶりに感じるビジネスの高揚感が、血の中を駆け巡る。
ただ、“高揚感”の一方で、私の頭をよぎるものがあった。
――過去の苦い失敗だ。
成功を掴むたびに、いつも大事なものを失ってきた。仲間、家族、健康――。
かつてヤクザから逃げ回った日々や、命の危機に何度もさらされた記憶。
「もう二度と、同じ轍は踏まない」
そう強く誓いながらも、心のどこかに「結局、金とスリルが好きなんだろ?」と自嘲気味に笑う自分がいる。
アパレル販売、コンサル業、そしてこの“海外転売”が一気に軌道に乗り始めると、再び大きな流れが私を呑み込んでいくようだった。
「ここで引き返すなんてできない。もっと稼げるはずだ」
燃え上がる欲望と、「また全部失うのではないか」という不安が入り混じり、私はやがて眠れない夜を重ねるようになる。
・大きな転機の予感:運命の連鎖、その先にあるもの
もし、あの日ヤクザの魔手から逃げ延びられなかったら。
もし、離婚して家庭を捨てる決断ができなかったら。
もし、ここで再び金と成功に溺れてしまったら――。
人生はいつだって紙一重、私はその“薄氷”の上を渡り歩いてきたのかもしれない。
だけど今度こそ、失いたくないものがある気がする。
今度こそ、仲間を大切にし、周りを守りながら成功を掴みたい。
「もう二度と過去の過ちを繰り返さない」――そう誓う私がいる一方で、
「結局、スリルと金が好きなんやろ?」とほくそ笑むもう一人の私もいる。
自分の中の光と闇が交錯するなか、ビジネスは急速に拡大していく。
果たして、この先の運命はどちらに転ぶのか。
それはまるで、燃え盛る炎に手を伸ばしている感覚。
危険を知りながらも、熱さを知りながらも、私は引くに引けない状況へ踏み込みつつあった。
――道半ばで切り捨てたものと、まだ見ぬ未来への希望が、複雑に絡み合う。
そしてその先には、再び大きな転機が待ち受けていることを、私の本能はうすうす感じ取っていた。
拭い去れない“不吉な胸騒ぎ”と、何より稼ぎたいという衝動の間で揺れ動く心。
過去の失敗を繰り返すのか、それとも今度こそ、新しい道を切り拓けるのか。
すべてを捨てたはずの私が、再び“巨額”という魔物に手を染めようとしている――そこに待ち受けるのは栄光か破滅か。
「ここで止まれば楽なのかもしれない。でも、止まる自分は、もういない――」
紙一重の人生を歩んできた私が選ぶのは、さらに先へ進むこと。
ビジネスに惹かれる心は止まらず、運命の連鎖の先へ一歩、また一歩と踏み出す。
「再び大きな転機を迎え、今度は何を失い、何を守ることができるのか――答えを知るのは、まだ先の話だ。」
凍てつく夜でも止まらぬ出荷作業

凍りつく冬と熱い想い
「あと数個、梱包し終えたら本局へ走るか……」
辺りは真夜中、吹き荒れる吹雪が街を白く覆い隠していた。
私の手はかじかみ、唇は震えるが、それでもeBayの出荷物を抱え、夜の郵便局へ向かう足を止めるわけにはいかない。
どんなに寒くても、クリスマスや年末年始でも、24時間開いている本局が私の生命線だった。
海外の顧客は日本の祝祭日なんて気にしない。
彼らが待ち望む商品を、少しでも早く届けたい――その一心で、私の夜はいつも短かった。
なぜこんなにも熱心になれるのか。
それは、“ほんの一手間”が世界中の人々に小さな感動を与えると知ってしまったからだ。
日本製品と一緒に“うまい棒”を添えたり、心ばかりのメッセージを手書きして同封したり。
ある時は5ドルの商品、またある時は500ドルの商品――値段の大小にかかわらず、私は必ずお礼の言葉とお菓子を加えた。
それだけで、「サンキュー!」「こんなの初めてだよ」と海外の顧客は笑顔になってくれる。
地味で手間のかかる作業だけれど、その積み重ねがいずれ何かを変えると信じていた。
事実、SNSやブログ、コミュニティサイトで私のストアが紹介されるようになり、
半年、1年と休まずに突き進んだ結果、いつの間にか数か国に1000人もの“常連客”ができていたのだ。
しかし、私の胸には一抹の不安があった。
――過去に何度も“成功”の兆しが見えた瞬間、大切なものを失い続けてきた。
今度こそ同じ轍を踏むまいと、私は早めにパートスタッフを雇い、梱包や出荷を委任する体制を構築した。
さらにプログラマーを雇い、Amazonから日本製品を自動で取得し、eBayへ大量に出品できるツールを作ってもらう。
わずかな隙さえ許さないように――そんな決意の表れでもあった。
「なんだ、今度こそ自分はちゃんと安全なやり方でビジネスを回しているじゃないか」
一人で抱え込むのではなく、体制やシステムでリスクを分散し、効率よく仕組み化していく。
思えば、これまでとは違うやり方だった。どんどん商品数は増え、気づけば2万点ものラインナップに。
凍える夜に一人で荷物を抱え込む姿は過去のものになり、私は一気に“ビジネスオーナー”として羽ばたき始める。
絶好調の裏に立ちこめる予兆
そして42歳、海外販売に挑戦して2年目、売り上げは3億円を超えた。
私にとっては“挑戦”と“地道な積み重ね”の証が、予想以上の速度で花開いた形だ。
ラスベガスに法人を立ち上げ、ヨーロッパやオーストラリアなど合計5カ国に出品を拡大。
ここまでが“順風満帆”という言葉そのもの――誰から見ても、まさに圧巻の成功だった。
一方で、胸の奥では小さな声が囁いている。
「こんなに調子がいいなんて、うまく行きすぎじゃないか……?」
これまでの人生で何度も、“絶好調”から一転して地獄を見てきた私だからこそ、潜在的な警戒心が消えないのだ。
――しかし、成功は人の心を盲目にする。
オフィスで国際電話を取りながら、あるいはプログラマーたちと新しいシステムの打ち合わせをしながら、
心の隅でそう自問していても、走り出したビジネスは止まらない。
雪が止んでも、出荷作業は止まらない。
あの極寒の夜に、一人で郵便局に駆け込んでいた頃の自分からは想像もつかないほど、私は大きなビジネスの渦に呑まれつつある。
巨額の取引、海外法人の設立、そして膨張する市場――すべてが眩しく、同時に不穏な予感をまとって見えた。
「今度こそ安全に、今度こそ失わずに――そう願う気持ちと裏腹に、いつ何が崩れるかわからない」
それでも、あのときの“凍てつく夜”を知る私だから、前を向いて走り続けるしかないのだ。
どれだけ怖くても、もうすでに引き返せない場所まで来てしまったのだから。
「これまでとは違う、これまではなかった、ちゃんとしたやり方。
そう言い聞かせながらも、成功の光の先にある影が、少しずつ形を成していく――」
VIP直取引と、世界への野望

プラットフォーム依存の限界
「eBayとAmazonだけでは、いずれ頭打ちになる――」
そんな声が頭の片隅でずっと囁いていた。
商品を出品して利益を得るだけのビジネスモデルでは、いつか競合が真似してくる。
それを回避するためには、“プラットフォームに頼らない”道を探らなければならない。
私がそう思い始めた矢先、運命のようにVIP顧客の声が耳に飛び込んできた。
「あなたから直接買いたいんだけど。もっとたくさん、もっといろいろ、日本製品を送ってくれないか?」
――その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「じゃあ、定価に2割上乗せする代わりに、あなたの欲しいモノは何でも全部取り寄せよう。絶対に手に入れてみせるよ。」
すでに築きあげていた信用がものを言い、VIP顧客たちはためらいもなくこの提案を受け入れてくれた。
その結果、私の元には異常なまでの注文リストが送られてくるようになった。
100品、200品、時には500品――とても個人で消費する量じゃない。
「なんでこんなに買うんだ?」と思わず尋ねると、彼らは明るい声でこう笑う。
「周りの人に頼まれてさ。『日本の良いモノが安く買える』って噂になってるんだよ!」
このとき、私の中に新たなビジネスチャンスの炎が燃え上がる。
「この国には、まだ日本製品が広まっていない地域が多い。
だったら、現地に住む信頼できる人がショップを開けば、そこは無限の市場になる――」
目の前に広がるのは、既存のプラットフォームを超えた大きな野望の地図だった。
「一緒にやろう!」――VIP顧客数人があっさりと協力を申し出てくれた。
彼らは現地で知名度と信用をもっている。それに私が日本から商品を安定供給できれば、両者にメリットしかない。
国際弁護士と通訳を雇い、法的問題をクリアすると、私たちは計6カ国で共同事業をスタート。
想像以上のスピードで売上が伸びていくなか、経営者たちと電話会議を重ねる毎日は、まさに夢を駆けるような高揚感に満ちていた。
そして、売上が実際に数字として目に見えると、人々の欲や野心がさらに膨らむ。
「M&Aの話が舞い込んできたよ。利益が出そうな企業を買収して、あなたのノウハウで儲けさせて、また売却する――そのスキーム、やってみない?」
まるでドミノを倒すように、次々と事業が拡大し、“ビジネスの大河”が勢いを増して流れていく。
私はその奔流の中心に立ち、自分の野望が肥大化していくのを、妙な興奮とともに感じていた。
気がつけば45歳、事業はグループ全体で200億円もの売上を叩き出す“大企業集団”に成長していた。
ちょっと前まで、深夜に吹雪の中を郵便局へ走っていた自分が、今や海外企業の社長たちとビデオ会議を連日こなしている。
元手はそう大きくなかったはずなのに、“日本製品を愛する人々”と“現地の販売力”を組み合わせたことで、短期間でここまで来たのだ。
「もう、プラットフォーム依存どころか、eBayやAmazonも超えてしまったじゃないか……」
目の前に広がる成功の景色は、過去の失敗や孤独を噛みしめていた自分からは、想像もつかなかった姿だった。
だが、一方でこの巨大ビジネスの舵取りをしているのは、ほかでもない私自身。
「こんな急成長、いつかほころびが出るんじゃないか……?」
頭の隅でそんな不安がちらつくものの、今のところはすべてが“順風満帆”。
果たして、この大成功の先には何が待っているのか――。
無限の市場を見つけ、「一緒にやろう!」という声に突き動かされ、世界6カ国で共同事業を展開。
気づけば200億円の売上が動く大企業集団を手中に収めた私は、かつての“貧乏くじ”を引いていた自分とは全く違う場所へ辿り着いた。
しかしながら、一歩間違えば崩壊するかもしれない脆さを秘めていることを、誰より私自身が知っている。
「このまま勢いに乗って、どこまで行けるのか――
それとも、また何かを失うことになるのか。」
そんな淡い不安を振り払うように、私は世界地図を広げる。
マーケットはまだ尽きることを知らない。自分の野望はさらに膨らんでいく。
VIP顧客との直取引――その選択が生み出した壮大な成功劇は、まだ幕を下ろす気配を見せないのだ。
「さあ、次はどの国へ攻め込もうか。無限に広がる市場と私の野望が、火を噴こうとしている――」
破滅――50億円の負債と全てを失う日

48歳の誕生日をみんなが祝ってくれている頃、グループ総売上は200億円を超え、もはや私たちが敵なしに見えるほどビジネスは絶頂期にあった。
なのに、私は漠然とした胸騒ぎを覚え、同時に“てっぺんをみてしまうと飽きてしまう”という自分の悪癖に気づいていた。
新しいものを求めたくなる――それがいつものパターン。
今度も、大きくなりすぎたビジネスに興味を失いかけていた。
そんな微妙なタイミングで、共同事業の整理を始めようとした矢先、最悪の爆弾が炸裂する。
「そろそろ次の展開を考えてるんだよね。もう、てっぺん見えちゃうとさ……」
まるでゲームをクリアした後のように、私はどこか気楽に話していた。
――しかし、そのときはまだ知らなかった。私の会社で働く中国人スタッフが、陰でとんでもないことをしているなんて。
些細な胸騒ぎが大きくなる暇もなく、すぐに偽物販売という最悪の事態が明るみに出る。
しかもアメリカの人気オンラインゲーム関連商品を勝手にコピーし、eBayやAmazonに出品していたのだという。
「どうして、よりによってなんでこのゲーム会社なんだ……」
倒れそうなほどの衝撃だった。大手ゲームメーカーは訴訟専門会社を雇い、徹底的に証拠を集め、私たちを商標権侵害で提訴。 さらに組織的な詐欺行為と認定されたことで、刑事罰と民事賠償の両面で巨額の支払いを求められる。
裁判所が下した判決文には、こう刻まれていた。
> 「罰金3,000万ドル(約30億円)」「懲役7年」
> 組織的知的財産権侵害、詐欺的商行為による重大な監督責任の懈怠……
目を疑った。これが現実か。
さらに民事賠償や弁護士費用など、総額約50億円もの巨額請求。
そして判決確定後の長期営業停止や、eBay・Amazonでの永久追放など、
ただのビジネススキャンダルでは収まらないレベルの制裁が並んでいる。
すべてを奪い去る責任と怒り
幸いにも弁護士が必死に交渉を続け、なんとか実刑だけは執行猶予付きに減刑された。
それでも罰金・賠償金の合計50億円という膨大な支払い、そしてeBay・Amazonからの永久追放は避けられなかった。 大切に築いてきた企業の信用も、一夜にして崩れ落ちる。
「代表者としての監督責任の重大な懈怠」――それが私への決定的な烙印だった。
スタッフへの怒りは激しく燃え上がった。
「どうしてこんなことを勝手に……」
しかし、いくら探しても当の実行犯は逃亡して行方不明。
取り返しのつかない事態に陥った以上、私が責任を負うしかない。
――全財産をはたいてもなお足りないほどの負債を抱え、私は灰燼に帰したビジネスの残骸を見つめるしかなかった。
「なんでこうなる……?」
200億円規模の帝国を作り上げたはずが、一瞬にして崩壊。
それまでの熱狂が虚しく思えるほど、私は深い絶望に沈んでいった。
嫌悪感と怒り、そして喪失感に押し潰されそうになり、気づけば酒しか喉を潤せなくなっていた。
1年――まるまるその間、私の記憶は酔いどれの闇に飲み込まれるばかり。
逃亡したスタッフ、取り返しのつかない信用、塵と化した莫大な資産……
思い返すほどに、むしろこのまま潰れてしまえば楽になるんじゃないかと思えてくる。
そう、かつて私は何もかも投げ出したくなる底辺を経験していたはずなのに、また同じところに逆戻り。
結局、過去の成功や野望は、その裏に潜む落とし穴を見逃していたということなのか。
この先、自分がどうやって再び立ち上がるのか、あるいは立ち上がれないのか――。
希望どころか、未来さえ見えない。
「一夜にして地獄に突き落とされる」
――そんな言葉がこれほどまでに現実味を帯びるとは思わなかった。
かつての私なら、ここで諦めていたかもしれない。
だが今、酒の底からほんのわずかに見える自分への問いかけ――
「これで終わるのか。それとも、また道を探して歩き出すのか……?」
50億円の支払いと永久追放の重みを抱えながらも、物語はまだ終わらない。
暗闇の先にあるのは更なる絶望か、はたまたかすかな再起の光か――。
それは、この先の私の“決断”次第なのだ。
第三章:魂の再生

ステージ4――がん告知と死の淵
死の淵から始まる物語
50億円の賠償金を背負ってから2年が経った50歳の夜、いつものように酒を飲んでいた私は、
人生のどん底を味わい、もうどうでもいいやという思いで酒を浴びるほど呑み、意識がまどろむまま眠りにつく。
しかし翌朝、激しい立ち眩みと共に崩れるように床に倒れた。
かかりつけの病院で採血検査するとある数値が標準値をかなり上回っていたので、2日後に大腸カメラの検査をした。
「大腸に大きな腫瘍が三つあり、ステージ3bですが、4と言ってもおかしくない…」
医師の言葉が耳を貫く。思わず病室の天井がぐらりと揺れ、吐き気に襲われた。
2か月後に行われた開腹手術は、癒着がひどく7時間に及んだ。
幸いなことに命は取りとめたが、術後の体には予想もしないほどの不調が襲い掛かる。
急な下痢や腰の脱力感、どう説明しても「原因不明」としか返ってこない症状に苦しむ日々。
「もう外で働くのは無理かもな……」
体を動かすたびに思い知る自分の限界。そして先が見えない不安。
外界から切り離されたような孤独が、ますます心を蝕んでいく。
そんなとき、脳裏にふとよぎったのが、かねてより興味のあった「心理学」
「自宅に閉じこもっていても、内面を学ぶことならできる。そうだ、やってみよう」
その考えは、まるで朽ち果てた土の中から新芽が顔を出すように私を奮い立たせた。
横浜にいる“カリスマ鍼灸師兼心理学講師”を頼り、1年半ものあいだ傾聴から家族療法まで徹底的に学ぶ。
不思議なことに、心を深く理解しようとするにつれ、体調も徐々に快方へ向かっていった。
「術後の自分に、何ができるか……」
模索の末、私は婚活カウンセラーとして再スタートを切る。
そこに活かしたのは、自分自身の絶望や苦しみ。
――大事故で死の淵を見たことも、偽物販売で巨額の罰金を背負ったことも、家族との別れも、そしてこの大腸がんさえも。
そんな過去の痛みが、相手の心に寄り添う“共感”と前へ進むための“カウンセリング&コーチング”につながったのだ。
顧客100人を抱えるようになり、驚くほど成婚率が伸びていく。
成長していくカップルの姿は、かつて味わったビジネス的な“快感”とは異なる、魂に染み入るような喜びだった。
だが、病魔は完全に消えたわけではなかった。60歳を目前にして再び体調が悪化し、勤務が難しくなっていく。
ここまで築いたものを、また失うのか――そう思うと唇を噛んだ。
「もう、会社勤めは難しい。ならば、雇用に縛られず起業しよう」
手術痕が疼く体をいたわりながら、私は最後の力を振り絞って独立を決意する。
心理カウンセラーとして個人で活動し始めると、以前からアドバイスをしていたパン屋の経営者が正式なコンサル契約を望んできた。
AI系ベンチャーからも経営顧問のオファーが届く――それこそ、私の培ってきた“人の心に寄り添うスキル”と“ビジネス経験”を必要としているのだ。
体調と相談しながらも、次々と訪れるチャンスを受け止める日々。
堂本流メソッド――それは、過去の失敗や絶望すらも“教材”として使い、人々の可能性を引き出す方法論だった。
かつては何度も地獄を見てきた私だからこそ、痛みを抱える人々や企業に寄り添えるのだろう。
大腸がんがもたらした苦しみは今も完全には消えない。
けれど、その病に向き合う過程で得た「心を学ぶ」という視点が、私の人生に新たな扉を開いてくれた。
単なる金儲けではなく、人の幸せを見守り、支える喜び――今の私にとって、それが何よりの希望であり、生き甲斐になっている。
「死の淵から復活し、共感を武器に人を導く。
この道こそが、私が探し求めていた真の天職なのかもしれない。」
何度も倒れ、何度も失敗し、それでも立ち上がり続けてきた経験が、いまは私の最大の強み。
人生最後のステージに近づきつつあるからこそ、残された時間を使って、一人でも多くの人を幸せに導きたい――そう心から思う。
「人の心と自分の体、両方を慈しみながら、一歩ずつ進んでいく。
それが、私が生まれてきた意味なのかもしれない……」
人生は、何度でもやり直せる
天国と地獄を行き来した衝撃
何度、天国と地獄を行き来しただろう。
あるときはビジネスで50億、100億という大金を動かして絶頂に立つ。
けれど、何かをきっかけに――まるで風船が弾けるかのように――すべてを失う。
もうそれに慣れてしまったのか、豪邸を手放し、銀行口座が残りわずかになっても、
思わず「生きてるだけでラッキーだ」と笑ってしまう自分がいた。
しかし、運命はときに残酷さを増す。
大腸がんで「ステージ3b、ほぼ4」という宣告を受け、本当に死と隣り合わせだと理解させられたとき、私の中で何かが変わった。
手術を乗り越えたあとに残ったのは、ほんのわずかな資産と、「人としての経験」
それ以外は、全部と言っていいほど失っていた。
けれど、その失った経験をバネに、心理学とカウンセリングを学んだことで、新しい道が拓けていく。
やがてパン屋のコンサルやAI企業の顧問など、以前のビジネスとは違う形で人や企業をサポートする立場へ。
それは一見、地味で華やかさには欠けるかもしれない。
でも、私にしかできないサポートがあると思えたとき、全身に生きている実感が戻ってきたのだ。
人生のあらゆる局面で成功しては転落し、どん底まで落ちてはまた這い上がる。
そんな波乱万丈な道のりは、もう二度と味わいたくないほど辛い。
それでも、その苦しみが自分を形づくるかけがえのない“糧”になったのも事実。
大金を手に入れたときには見えなかった他者への思いやりや、命の大切さが、いまでははっきりとわかる。
そう思えたからこそ、私は断言したい。
「人生は、どこからでもやり直せる。再スタートに遅すぎることはない」
“何度でもやり直せる”という希望
家族と離れ離れになった。健康もお金も失った。
だけど、だからこそ、人間は最底辺からでも一歩ずつ前を向いて歩ける。
60歳になり、体調を気遣いながらの生活ではある。
それでも誰かを元気にできる仕事があり、私の経験を望んでくれる人がいる。
それは私が奇跡的に生き残ってきたからこそ与えられた“役目”のように感じている。
誰しもが抱える暗闇や挫折――その大きさは、人に寄り添う包容力へと転じる。
だから苦しんだ分だけ、人の痛みを理解できるのだ。
これから先も、人生の物語は続いていく。
成功と失敗、光と闇を繰り返した私だからこそ、もしかしたらまた何かを失うかもしれない。
けれど、もう恐れることはない。
なぜなら“失った”経験がすでに、次の“始まり”のきっかけになることを知っているからだ。
「人生は、どこからでもやり直せる」
その言葉を、今の私は胸を張って口にできる。
誰よりも多くの失敗をし、痛みを抱えた私だからこそ、説得力をもってそう言えるのだろう。
そして、ほんのわずかでも笑顔を交わし合える世界を広げるために、もう一度だけ歩き出す。
小さな一歩でも、またいつか誰かの背中を押す大きな力になるかもしれない――そんな希望を抱きながら。
「何度だってやり直せる。だからこそ、再スタートを切る自分を信じていきたい」
現在の活動:心の傷を力に変えるサポート

「心の専門家」であり「元経営者」という二つの視点から、あなたに寄り添う支援を提供しています。
個人向けカウンセリング
- トラウマや自己否定感で苦しむ方へ
- 「もう終わりだ」と思い込んでいる方へ
- 家族関係の改善を目指す方へ
- 人生の再出発を考えている方へ
実績:年間約2,000名のカウンセリングを実施
- 対人恐怖から1,000人規模のイベント登壇へ
- 家族との絆を取り戻した方多数
- 生きる意味を見出し、新たな一歩を踏み出した方々
起業家・自営業者向け支援
200億円の成功、50億円の負債——。その全てを経験した私が、あなたの不安と可能性に寄り添います。
- 売上アップの具体的戦略立案
- 事業拡大時のリスク管理
- メンタル面のケアと経営判断の両立
- 起業準備から軌道に乗せるまでの伴走支援
実績:300社以上の支援実績
- 半年で売上2倍達成
- 新規事業の成功的な立ち上げ
- 借金返済から事業V字回復
企業経営者向けコンサルティング
「本当は何がしたいんですか?」——。
その一言から、経営者の本質的な悩みを解き放ち、新たな道を切り拓きます。
- 経営者自身の心のケア
- 組織改革・人材育成
- 事業戦略の見直し
- 承継問題の解決
講演活動
児童養護施設、非行、ビジネスの栄光と挫折、末期がん——。私の人生すべてを包み隠さずお話しします。
- 年間50回以上の講演実績
- 企業研修・管理職研修
- 教育機関での講演
- 各種セミナー・イベント
ご相談・お問い合わせ
まずは無料相談で、あなたの物語をお聞かせください。
「ここからは誰にも話せない」という想いも、必ず受け止めます。
あなたの再出発への道を、共に見つけていきましょう。
[講演依頼・企業研修のお問い合わせ]
mail: info@kokoemiplus.com