灰は、火種になる。私の人生のすべてが、その証明だ。
序章:あなたも感じていませんか?「成功したのに、なぜ虚しいのか」
「誰にも必要とされない」という恐怖。私も50年間、その呪縛と戦ってきました。もしあなたが今、他人の評価に振り回されているのなら、この章がその鎖を断ち切るきっかけになるかもしれません。
平成26年(2014年)1月。

私は碧南市の病院の個室で天井を見つめていた。50歳になったばかりだった。
窓から差し込む午後の光が点滴の管を照らしている。腹部には、まだ生々しい手術痕。大腸がん、ステージ3b。医師からは「ほぼステージ4に近い進行度でした」と告げられていた。
不思議なことに、恐怖はなかった。
むしろ、ある種の安堵感すら覚えていた。
「ようやく、終われる」
その時、私の通帳残高は限りなくゼロに近かった。かつて年商200億円を誇った越境ECビジネスは崩壊し、会社も不動産も動産もすべて売却し50億円の負債を精算。信頼していた社員の横領と粉飾。すべてが露見し、すべてが消えた。
家族とも疎遠になっていた。娘とは何年も会っていない。
世間的に見れば、私は完全な「失敗者」だった。
しかし――
あの病室で、私は人生で初めて「自由」を感じていた。
もはや守るべき地位もない。維持すべき体面もない。期待に応える必要もない。
ただ、呼吸をして生きているだけ。
その単純な事実が、なぜかとても新鮮に感じられた。
「堂本さん、リハビリの時間ですよ」
看護師の声で、私は現実に引き戻された。
ゆっくりとベッドから身体を起こす。まだ痛みは残っているが確実に回復に向かっている。
廊下を歩きながら、ふと思った。
なぜ私は、あれほど必死に「成功」を追い求めていたのだろうか。
年収、肩書き、社会的地位。それらをすべて手に入れた時、なぜあれほど虚しかったのだろうか。
今、2025年。あれから11年が経った。
現在60歳の私は、心理カウンセラーとして、年間2,000名以上の方々と向き合っている。そして確信を持って言える。
私だけではなかった。
この国には、私と同じような想いを抱えている人が、本当に大勢いる。
会社では「できる人」と評価され、それなりの収入も得ている。家族もいて、社会的には「成功者」と見られている。
それなのに、心の奥底では常に何かが欠けているような感覚。
朝、鏡に映る自分の顔を見て、「これが本当の自分なのか」と問いかけたことはないだろうか。
深夜、ふと目が覚めて、「私の人生、このままでいいのだろうか」と不安に駆られたことはないだろうか。
もし、あなたがそんな想いを少しでも抱えているなら、この物語を読んでいただきたい。
これは、7歳で母に捨てられ、非行に走り、サラ金で人の心を壊し、200億円を稼いで50億円を失い、がんになって初めて「生きる意味」を見出した一人の男の物語である。
特別な才能があったわけではない。 高潔な人間でもなかった。 むしろ、人として最低の部分もたくさん持っていた。
そんな私でも、50歳を過ぎてから人生を「リデザイン」することができた。
いや、正確に言えば、すべてを失ったからこそ本当の人生を始めることができたのだ。
この物語には、きれいごとは書かない。
成功法則も、精神論も、説教もない。
ただ、一人の人間が地獄を見て、そこから這い上がってきた生々しい記録があるだけだ。
しかし、その中にこそ、あなたが探している答えがあるかもしれない。
「成功したのに虚しい」 「このままでいいのか分からない」 「もう遅いかもしれない」
そんな想いを抱えているあなたに私は伝えたい。
人生は何歳からでもやり直せる。
そして、本当の成功とは、社会的な評価でも、銀行残高でもない。
それが何なのか、この物語を通じて一緒に探していこう。
さあ、ページをめくってください。
あなたの「人生最終章」を最高傑作にするための旅が、今、始まります。
第1章:「誰にも必要とされない」恐怖から解放される方法
7歳で始まった承認欲求との戦いは、私に成功と、それ以上の虚しさをもたらした。あなたのその渇きは、他人の評価という海水では決して満たされることはない。この章で自分自身を真に満たす「水源」のありかを探っていく。

7歳で母に捨てられた日から始まった、承認欲求との50年戦争
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
1971年、大阪。 朝から母親が妙にそわそわしていた。 いつもなら朝帰りで酒臭い息をしているはずなのに、その日は違った。
「ついてき」
母の手に引かれて着いた先は、薄暗い建物の一室だった。 天井の蛍光灯がジジジと音を立てていて、壁の色はくすんだベージュ。 なんとも言えない不穏な空気が漂っていた。
「ここで待っとき」
それが、母親から聞いた最後の言葉だった。
奥の部屋から母親の怒鳴り声と、大人たちの慌てた声が聞こえてくる。 やがて足音が遠ざかり静寂が訪れた。
「おかん?」
返事はない。
しばらくして、知らないおじさんが入ってきた。
「ここは児童養護施設ちゅうところでな。おかんやおとんのいない子らが暮らすとこや。お前のおかんはもう戻ってこん。今日からここで暮らすんやで」
7歳の俺には、その言葉の意味が理解できなかった。 いや、理解したくなかった。
でも、体は正直だった。 全身が震え、涙が止まらなくなった。
「捨てられた」
その事実が、鋭い刃物のように心に突き刺さった。
それから40年近く。
俺は「捨てられた子ども」から「成功者」へと這い上がった。
サラ金業界で20歳で入社、21歳で店長、26歳で取締役部長。 年収3000万円。 その後自分の力を試したくなり独立。事業を次々と立ち上げ、45歳のときにはグループ全体で200億円を動かすまでになった。
世間から見れば、完璧な成功者だった。
でも、どれだけ金を稼いでも、どれだけ部下に囲まれても、心の奥底にある「恐怖」は消えなかった。
「また捨てられるんじゃないか」 「本当は誰も俺を必要としていないんじゃないか」
その恐怖から逃れるために、俺は必死で働いた。 人の倍、いや3倍は働いた。 結果を出し続ければ必要とされ続けると信じて。
でも、ある日気づいたんだ。
俺が必死で集めていたのは、「必要とされている証拠」じゃなかった。 ただの「依存」と「利用」だった。
部下たちは俺の「金」を必要としていた。 取引先は俺の「ビジネス」を必要としていた。 でも、誰一人として「俺自身」を必要としていなかった。
47歳のとき、人生は急転直下した。
「偽物販売」の容疑で裁判にかけられた。 俺が雇っていた中国人スタッフが、俺の知らないところで偽ブランド品を大量に販売していたんだ。
48歳で判決が下った。 罰金50億円。実刑7年。
法廷で判決を聞いたとき、頭が真っ白になった。 実刑は諸々の事情で免除されたが、50億円という天文学的な数字が、俺の人生を押し潰した。
会社を清算し財産をすべて売り払った。 家も車も、思い出の品も、全部だ。
あれだけ「社長!」と慕っていた部下たちは、判決が出た瞬間、蜘蛛の子を散らすように消えた。
「金の切れ目が縁の切れ目」
使い古された言葉が、これほど身に染みたことはなかった。
50億円を返済し終わったとき、俺には何も残っていなかった。
金も、地位も、人脈も、すべて失った。 残ったのは、ボロアパートの一室と肝臓を壊しかけた体だけ。
それから2年間、俺は酒浸りの生活を送った。
朝から晩まで酒を飲み、意識を失うまで飲み続けた。 コンビニの安酒を買い込み、テレビも見ずにただ天井を眺めていた。
「俺の人生、何だったんだ」
その問いが、頭の中でぐるぐると回り続けた。
7歳で母に捨てられ、必死で這い上がって、200億円を動かすまでになった。 でも、結局また「捨てられた」。
「やっぱり俺は、誰にも必要とされない人間なんだ」
自己憐憫と酒に溺れる日々。 髭は伸び放題、風呂にも入らず、ゴミだらけの部屋で腐っていく。
そんなある日、激しい腹痛に襲われた。
病院で検査を受けると、医者が深刻な顔で告げた。
「大腸がん。ステージ3b。すぐに手術が必要です」
50歳。 金も失い、人も失い、今度は命まで失おうとしていた。
でも、不思議なことに、がん宣告を受けたとき、俺の中で何かが変わった。
「死ぬかもしれない」
その現実を突きつけられたとき、初めて「生きたい」と思った。
酒浸りの2年間、俺は死んだように生きていた。 でも、本当に死が迫ってきたとき、体の奥底から「生への渇望」が湧き上がってきた。
手術は成功した。 人工肛門になる可能性もあったが奇跡的に免れた。
病室のベッドで目を覚ましたとき、窓から差し込む朝日がやけに眩しかった。
「俺、生きてるんだ」
当たり前のことが、奇跡のように感じられた。
そして、そのとき初めて気づいたんだ。
俺が50年間追い求めていた「誰かに必要とされること」。 でも、本当に必要だったのは、「自分が自分を必要とすること」だった。
7歳の俺は、母親に必要とされなければ生きていけなかった。 だから、捨てられることが死ぬほど怖かった。
でも50歳の俺は違う。 もう誰かに必要とされなくても、生きていける。
いや、もっと正確に言えば――
「他人に必要とされること」を追い求めるのをやめたとき、初めて「自分の人生を生きること」の大切さに気づいたんだ。
退院後、俺は心理学を学び始めた。
なぜ自分は承認欲求に振り回されてきたのか。 なぜ金や地位を追い求めても、心が満たされなかったのか。
その答えを探す中で、ある心理学者の言葉に出会った。
「人は誰かに必要とされるために生まれてくるのではない。自分の人生を生きるために生まれてくる」
シンプルな言葉だった。 でも、俺の50年間の呪縛を解く鍵がそこにあった。
母に捨てられた7歳の俺は、「必要とされないこと=死」だと思い込んでいた。 だから必死で承認を求め続けた。
でも、それは幻想だった。
人は誰かに必要とされなくても、生きていける。 むしろ、誰かに必要とされることばかり考えていると、自分の人生を見失ってしまう。
俺がそうだったように。
今、俺は心理カウンセラーとして、年間2000名以上の相談を受けている。
驚くことに、相談者の8割以上が、俺と同じ「承認欲求の呪縛」に苦しんでいる。
「部下に嫌われたくない」 「家族に必要とされたい」 「社会から認められたい」
その気持ちは、痛いほどわかる。
でも、俺は必ず伝える。
「あなたを本当に必要としているのは、他の誰でもない。あなた自身なんです」
ある50代の経営者は、俺にこう言った。
「社員30人を抱えているけど、誰も俺の本当の姿を知らない。俺は『社長』を演じているだけなんです」
彼の目には、かつての俺と同じ虚無感が宿っていた。
俺は彼に問いかけた。
「もし明日、会社がなくなったら、あなたには何が残りますか?」
彼は黙り込んだ。 そして、ぽつりと呟いた。
「……何も残らない」
「それが答えです。あなたは『社長』として必要とされることに依存している。でも、本当のあなたは、どこにいるんですか?」
彼は涙を流しながら、初めて本音を語り始めた。
本当は絵を描きたかったこと。 でも、親の期待に応えるために経営者になったこと。 成功すればするほど、本当の自分から遠ざかっていったこと。
「もう遅いですよね、50歳を過ぎて今さら……」
俺は笑った。
「俺なんて50歳ですべてを失って、がんになって、やっと自分を取り戻したんです。遅いなんてことはない」
承認欲求から解放されるということは、「誰からも必要とされなくていい」ということではない。
自分が自分を認め、自分の人生を生きる。 その結果として、本当の意味で人から必要とされるようになる。
俺の場合、肩の力を抜いて、素の自分で生きるようになったら―― 本当の意味で、人に必要とされるようになった。
「堂本さんと話すと、なぜか楽になる」 「あなたになら、本音を話せる」
こんな言葉をもらえるようになった。
7歳の俺が必死で求めていたものが、50歳を過ぎて、力を抜いたら手に入った。
人生とは、なんと皮肉で、なんと優しいものだろう。
もし今、あなたが「承認欲求」に苦しんでいるなら、一度、立ち止まってみてほしい。
あなたは本当に「必要とされたい」のか? それとも、「必要とされないと不安」なだけなのか?
その違いに気づいたとき、あなたの人生も変わり始める。
母に捨てられた過去は、消えない。 50億円の罰金も、2年間の酒浸り生活も、なかったことにはできない。
でも、その過去があったからこそ、今の俺がある。
同じ痛みを知っているからこそ、人の痛みがわかる。 どん底を経験したからこそ、本当に大切なものが見える。
あなたの過去も、きっとそうだ。
失敗も、挫折も、裏切りも。 すべては、あなたが「本当の自分」を取り戻すための、必要なプロセスだった。
俺が50年かかって辿り着いた答えを、あなたはもっと早く見つけられるはずだ。
なぜなら、このサイトに訪れたで、あなたはすでに「気づき」の入り口に立っているのだから。
次の章では、俺が46カ国を放浪して体得した「裏切られない人間関係の築き方」について話そう。
母に捨てられ、仲間に裏切られ、部下に見捨てられた俺が、どうやって「信じる」ことを取り戻したのか。
その答えは、意外なところにあった――。
第2章:「信じる」と「疑う」の間で、最適解を見つける技術
信じれば裏切られ、疑えば孤独になる。人間関係とは、そういうものだ。サラ金と事業の最前線で学んだのは、「100%の信頼」という幻想の危うさだった。完璧な信頼ではなく、壊れない関係を築くための知恵がここにある。

サラ金業界と事業経験で体得した、裏切られない人間関係の築き方
「黒人は本当に強いのか」
「ピラミッドは本当に存在するのか」
「インドカレーは本当に辛いのか」
16歳の俺が、関空から飛び立つときに頭の中にあった素朴な疑問だ。
海外に興味を持ったのは、単純な好奇心からだった。逃げるつもりも、更生するつもりもない。ただ、世界を見てみたかっただけだ。
そして実際、俺の海外生活は「定期帰国」の繰り返しだった。海外で面白い体験をして、金が尽きたら日本に帰る。4人の兄弟たちと犯罪で稼いで、また海外に出る。
このサイクルを19歳までありとあらゆる事をやり続け、最終的に5億円近い大金を積み上げた。
犯罪をやめる気なんて、これっぽっちもなかった。楽しくやっていたんだから。
段階1:運命の分岐点 〜19歳、全てを失った夜〜
19歳の夏、すべてが一気に崩れ落ちた。
まず母親の死。病室で目にしたのは、骨が見えるほどに壊死した指、肉が削げ落ちたような顔の母親だった。
俺は生命維持装置を外し、母を安らかに逝かせた。
そして、その直後に最大の危機が訪れた。
俺たちは縄張りを荒らしていた”お仕置き”として、ある組織に捕まった。ドラム缶とか、コンクリとか、想像を絶する現場だった。
「あ~俺たち、南港に沈められるんだ…」
殺される寸前、一か八かで、俺たちは積み上げた5億円を差し出す代わりに「命だけは助けてほしい」と、組織のトップに直談判した。
奇跡的に解放された。ただし、「0時を回ってからその顔を見たら最後や」という条件付きで。
深夜のうちに関空へ直行した。それぞれが別の行き先を選び二度と戻らない。次に会うのは20年後ハワイで!と固く誓う。
俺は一抹の嫌な予感を抱えながら、北海道行きの飛行機に乗った。
その後、嫌な予感は的中した。
4人の兄弟たちは、どうしても”甘い汁”を断ち切れず、あの危険地帯に舞い戻ってしまった。数か月後、俺はテレビで4人の名前を次々とニュースで聞いた。ゴミ捨て場や川で、変わり果てた姿になって……。
「戻れば殺される」—— わかっていても彼らは戻ったのだ。
俺を最後まで見捨てなかった兄弟たちを失い、俺は完全に一人になった。
その時、初めて心の底から思った。
「もう二度と、あの世界には戻らない」
段階2:新しい人生への模索 〜北海道での出直し〜
北海道の地で、俺は21歳の若さで結婚し、2人の子どもを持つ”普通の家庭”を築いた。
父親を知らずに育った反動なのか、”当たり前の幸せ”に飢えていた。小さな家で妻と子どもたちと食卓を囲む光景を心の底から望んでいた。
でも、新婚旅行から帰ってきてたった2週間後、人生は再び急転した。
妻を後ろに乗せ、海岸線をバイクで走っていた時、対向車が飲酒運転で突然右折してきた。慌てて妻を振り落とす形でかばったが、俺自身は交わしきれず、追突。
妻は右手骨折。俺は右足が体に15センチほどめり込み、右腎臓破裂、右肺圧迫、そして大量出血で心肺停止状態に陥った。
奇跡的に息を吹き返したが、大量輸血の影響でC型肝炎を発症。これから20年もの長きにわたり苦しめられることになる。
死線を越えた俺に、新たな決意が芽生えた。
「家族を守るために、ちゃんと稼がなければ」
20歳でサラ金業界に入社した。
段階3:サラ金業界で学んだ人間の本性 〜人を見る目の基礎習得〜
サラ金業界では、人間の本性をイヤというほど見た。
金に困った人間が、どこまで嘘をつけるか。どこまで卑屈になれるか。
「もう少し待ってください」 「子どもが病気で……」 「仕事をクビになって……」
泣きながら懇願する客たち。でも、俺に同情は許されなかった。
「契約は契約や。銀行強盗するなり、隣のおっさん殺すなり、なにしてでも明日までに用意せえよ」
冷徹に、事務的に追い込んでいく。それが俺の仕事だった。
でも、興味深いことがあった。
客の中には、明らかに嘘をついている人間と、本当に困っている人間がいることに気づいた。
嘘をつく人間の特徴:
- やたら話が上手い
- 言い訳が具体的すぎる
- 目を合わせない
- 急かすような態度
本当に困っている人間の特徴:
- 言葉少なく、静か
- 目が澄んでいる
- 見返りや同情を求めない
- 「必ず返します」と涙を流して、本当に返済してくる
そんな人を見るたびに、カンボジアで出会った家族を思い出した。
俺は無意識に「人を見る目」を養い始めていた。
21歳で店長、22歳でブロック長、26歳で取締役部長。年収3000万円という驚異的スピード出世を遂げた。
でも、家族を守るために始めた仕事が、いつしか家族を脅かす存在になっていることに気づいた。
詳しい話は次の章で語るが、娘の学校で起きたある事件が、俺の人生を180度変えることになる。
28歳で俺は退職を決意した。
段階4:事業での人間関係学習 〜信頼と裏切りの連続〜
28歳で退職後、俺は事業家としての道を歩み始めた。
最初は木札ストラップ事業。
よさこい祭りのチームロゴを刻む木札を携帯ストラップにするアイデアで始まり、ドコモ等の携帯ショップを運営している会社に売り込み、新規契約、機種変更するお客様にお礼としてプレゼントする企画を提案。売上は数ヶ月で1億円を突破した。
でも、エポキシ樹脂とシンナーによる重度の中毒症状で入院。半年の治療後、事業は廃業に追い込まれた。
次に企画屋として再起。
他業種の企業に「売上アップのアイデア」を提供するビジネスで、月商2000万円を超えるヒット商品も次々と生み出した。
でも、家庭は崩壊していた。
俺は仕事に逃げ込んでいた。家にいると落ち着かない。突然、「ハワイ行くぞ」「ディズニーワールド行くぞ」と思いつきで行動し、その都度、子どもたちの学校には風邪やインフルにかかったとズル休みの連絡。家族を振り回すばかり。
やがて妻からのひと言—— 「もう別れましょう。このままだと子どもたちはまともに育たない」
38歳で離婚。家族も事業も財産も、すべてを失った。
でも、不思議と胸の奥に残る火種は消えなかった。
「アイデア」と「人を喜ばせたい」という欲求——それだけは、まだ俺の魂を支えていた。
40歳から越境EC事業を開始。
日本製品を海外に販売するビジネスで、今度は人間関係に細心の注意を払った。
サラ金時代に学んだ「人を見る目」を活用してパートを厳選した。
本当に信頼できるのは誰か。利害関係を超えて付き合える人間は誰か。
そうやって選別していった結果、45歳で200億円の売上を達成した。
「俺の見極める目は完璧だ」
そう思い込んでいた。
段階5:成功時の慢心と最大の裏切り 〜見極める技術の限界〜
47歳、寝耳に水の知らせが届いた。
「社長、大変です。税関で大量の偽物が摘発されました」
俺が雇っていた中国人スタッフが、俺の知らないところで偽ブランド品を大量に販売していたのだ。
「信頼していたのに……」
でも、冷静に振り返ってみると、兆候はあった。
彼の売上が急激に伸びすぎていた。 質問をはぐらかすことが増えていた。 目を合わせなくなっていた。
俺は200億円という成功に酔いしれて、「見極め」を怠っていたんだ。
48歳で下された判決。罰金50億円、実刑7年。
信頼していた部下たちは、一人また一人と去っていった。
でも、今回は19歳の時とは違った。
全員が去ったわけじゃなかった。ごく少数だが、最後まで俺を見捨てなかった人間がいた。
「社長、俺にできることがあれば言ってください」
彼らに共通していたのは、俺が金持ちじゃなかった頃から一緒にいた連中だった。利害を超えた関係を、時間をかけて築いてきた人たち。
そして、もう一つ気づいたことがある。
裏切った中国人スタッフも、最初から悪人だったわけじゃない。彼もまた、金の魔力に飲まれただけだった。
人間は、状況によって変わる生き物だ。善人が悪人になることもあれば、その逆もある。
完璧な見極めなど、この世に存在しない。
段階6:70%の信頼という境地 〜がんが教えてくれた真実〜
50歳でがんになり、病室で一人天井を見上げていたとき、ふと思い出した。
16歳の頃、カンボジアでもらった小さな木彫りの仏像。あれは今でも、俺の部屋に飾ってある。
あの家族は、俺に何も求めなかった。ただ、困っている人間を助けただけ。
この世には、純粋な善意が存在する。
見返りを求めない。計算しない。ただ、目の前の人間と向き合う。
あの家族が教えてくれたのは、「無償の愛」の存在だった。
でも同時に、中国人スタッフの件で学んだのは、「人間は状況によって変わる」ということ。
そして、俺は一番大切なことに気づいた。
7歳の俺を最後まで見捨てなかったのは、同和地区の4人の兄弟だった。
16歳で死と隣り合わせになったとき、俺を助けてくれたのはカンボジアの家族だった。
48歳で破滅したとき、俺を見捨てなかったのは昔からの仲間だった。
本当の信頼関係とは、100%でも0%でもない。適度な距離感を保ちながら、時間をかけて築くものだった。
今、心理カウンセラーとして多くの人と接する中で、俺は新しい人間関係の築き方を実践している。
それは、「70%の信頼」だ。
100%信じることはしない。それは、相手にとっても重荷になる。 かといって、0%では関係が成り立たない。
70%くらいがちょうどいい。残りの30%は、「人間は変わるもの」という余白として残しておく。
ある経営者が相談に来た。 「パートナーに裏切られました。もう誰も信じられません」
俺は答えた。 「100%信じていたから、100%ショックを受けたんです。70%にしておけば、ショックも70%で済みます」
彼は苦笑いした。 「それじゃ、本当の信頼関係じゃないでしょう」
「本当の信頼関係って何ですか?相手が絶対に裏切らないという保証ですか?そんなもの、この世に存在しません」
厳しい言葉だったが、彼には響いたようだった。
サラ金業界と事業経験で学んだ、裏切られない人間関係の築き方
「信じる」と「疑う」の間で、最適解を見つける。
それは、簡単なことじゃない。
でも、16歳で好奇心から海外を放浪し、19歳で兄弟たちを失い、サラ金業界で人間の本性を見て、事業で信頼と裏切りを体験し、そしてまた失敗した俺が辿り着いた答えがある。
1. 時間をかける 信頼は一朝一夕には築けない。最低でも3年は様子を見る。
2. 利害を超えた関係を作る 金や地位で繋がった関係は、金や地位と共に消える。
3. 小さなことから始める いきなり大きな信頼を求めない。小さな約束から積み重ねる。
4. 裏切られても恨まない 人間は弱い生き物だ。裏切りも、その弱さの表れに過ぎない。
5. 自分から信頼される人間になる 他人に信頼を求める前に、自分が信頼に値する行動をしているか。
19歳で「もう二度と、あの世界には戻らない」と決めた俺が、60歳を過ぎて「70%の信頼」に辿り着いた。
完璧じゃない。でも、完璧じゃないからこそ、人間らしい。
カンボジアの家族も、きっと俺を100%信じていたわけじゃない。でも、70%くらいは「この青年は悪い奴じゃない」と思ってくれたから、助けてくれたんだろう。
同和地区の4人の兄弟も、俺を100%信じていたわけじゃない。でも、「こいつは仲間だ」と70%思ってくれたから、最後まで見捨てなかった。
それで十分だ。いや、それが人間関係の本質なのかもしれない。
あなたも誰かに裏切られた経験があるかもしれない。
そして、「もう誰も信じない」と心を閉ざしているかもしれない。
でも、覚えておいてほしい。
0%の信頼では誰とも繋がれない。100%の信頼は、裏切られた時のダメージが大きい。
70%。それが、俺がサラ金業界と事業経験で見つけた、ちょうどいい塩梅だ。
次の章では、俺がサラ金時代に直面した「家族のためという呪縛」について話そう。
年収3000万円を稼ぎながら、なぜ俺は家族を失ったのか。そして、どうやってその呪縛から解放されたのか。
その答えは、娘の学校で起きた、ある事件にあった――。
第3章:「家族のため」という呪縛を解く瞬間
私もかつて、その大義名分を盾に、本当に大切なものを見失っていた。犠牲の上に成り立つ幸せは本物ではない。参観日で私が直面した衝撃的な現実は、あなたの「正しさ」をも根底から揺さぶるかもしれない。

サラ金時代、娘の学校で気づいた「本当に守るべきもの」
残業は当たり前。休日出勤も当たり前。 深夜のメール返信。土日の緊急会議。 スマホが鳴れば、家族との夕食中でも仕事モードに切り替わる。
テレワークが普及した今、状況はさらに悪化した。
家にいても、家族といても、常に「仕事モード」。
リビングがオフィスになり、子どもの声は「雑音」扱い。
「家にいるんだから、家族との時間があるでしょ?」
そんな妻の言葉が、プレッシャーになる。
副業を推奨する時代。
本業だけでは不安だから、土日は別の仕事。
「将来のため」「子どもの教育費のため」
気がつけば、24時間365日、休む暇がない。
「パパ、今度の運動会来る?」
「仕事次第だな」
そう答える自分に、何の疑問も感じていなかった。
26歳、サラ金業界で取締役部長。年収3000万円。
でも、これは特殊な業界の話じゃない。 IT業界も、商社も、メーカーも同じだ。 そして、これは父親だけの問題でもない。
働く母親も、同じ呪縛にかかっている。
「子どものため」と言いながら、保育園のお迎えを祖父母に頼む。
「家族のため」と言いながら、土日も資格の勉強。
「私が頑張らなきゃ」という責任感が、家族との時間を奪っていく。
シングルマザー、シングルファザーなら、なおさらだ。
一人で家計を支えなければならない。
子どもと過ごす時間と、仕事の時間。
どちらも譲れないのに、どちらも中途半端になってしまう。
現代の働く親なら、誰もが心当たりがあるはずだ。
「家族のために頑張ってる」
その言葉を口にするたび、胸の奥で温かいものが湧き上がった。それが俺の生きる理由であり誇りだった。
70坪の注文住宅。 子どもたちには何不自由ない生活。 妻にも好きなものを買わせた。
朝7時に家を出るとき、まだ眠っている子どもたちの寝顔を見つめながら「今日も頑張るぞ」と心に誓う。
帰宅は深夜。土日も関係なく働いた。
疲労で足がふらつくことがあっても、通帳の残高が増えるたび「これでいい」と安堵した。
それが愛情だと信じて疑わなかった。
現代の父親が陥る「見えない罠」
「お父さん、今日も遅いの?」
6歳の娘がパジャマ姿で玄関まで出てくる。 時計はもう夜の11時を回っている。
俺の心は少し痛んだ。 でも、その痛みを押し殺して胸を張って言えた。
「ごめんな。お父さん、みんなのために頑張ってるから」
娘の小さな手が俺のスーツの裾を掴む。その温もりを感じながら俺は自分に言い聞かせた。
「これが正しい父親の姿なんだ」
心から信じていた。 疑う余地なんて微塵もなかった。
でも、この光景。 現代の働く父親なら、誰もが経験しているはずだ。
深夜まで続くオンライン会議。 土日も止まないメールやSlack。 「急ぎです」「至急確認お願いします」の嵐。
家族と一緒にいても、スマホが手放せない。 子どもが話しかけても、「ちょっと待って、仕事のメールが…」
これが、現代の「家族のため」の正体だった。
娘の純粋な質問が暴く真実
「みんなのためって、誰のこと?」
娘の無邪気な問いかけに、俺の胸がざわついた。
何でもない質問のはずなのに、まるで隠していた秘密を見透かされたような、妙な居心地の悪さ。
「それは……お前とお母さんと、弟のためだよ」
声に出してみても、その言葉が空虚に響く。
本当にそうなのか?
俺は本当に家族のために働いているのか?
「じゃあ、なんでいつも一緒にいないの?」
娘の純粋な瞳が俺を真っ直ぐ見つめている。 その視線が痛い。 逃げ出したくなる。
この子は知らない。
お父さんが毎日、誰かの父親を土下座させていることを。
お父さんが毎日、誰かの家族を泣かせていることを。
お父さんが「家族のため」という言葉で、自分自身を騙していることを。
でも、これはサラ金業界だけの話じゃない。
IT企業で深夜まで残業している父親。 商社で海外出張ばかりの父親。 メーカーで休日返上で働く父親。
みんな、同じ質問を子どもからされているはずだ。
「なんでいつも一緒にいないの?」
そして、みんな同じように答えているはずだ。
「お前たちのために頑張ってるんだ」
子どもの質問は、時として大人の心の奥底に隠された真実を暴く。
俺は苦笑いでごまかすしかなかった。喉の奥に苦いものが込み上げてくる。
でも、その程度の疑問なら、理性で押し殺すことができた。
「子どもには、まだ分からないんだ」
そう自分に言い聞かせれば、心の奥のざわつきも一時的に沈静化する。まだ、コントロールできる範囲だった。
でも、その違和感は完全には消えてくれなかった。 心の隅で、小さく燻り続けていた。
本当に「家族のため」なのか? それとも、「成功している父親」でいたいだけなのか?
その問いかけが、俺の心の奥で静かに響き続けていた。
冷酷な仕事の現実
サラ金の仕事は、人間の醜い部分を見続ける仕事だった。
「もう少し待ってください」 「子どもが病気で……」 「仕事をクビになって……」
泣きながら懇願する客たち。 その涙を見るたび、俺の胸に鋭い痛みが走る。
でも、その痛みを感じることは許されなかった。
「契約は契約や。銀行強盗するなり、隣のおっさん殺すなり、なにしてでも明日までに用意せえよ」
口から出る言葉は氷のように冷たい。でも、その冷たさで自分の心も凍らせなければ、この仕事は続けられない。
冷徹に、事務的に追い込んでいく。 それが俺の仕事だった。
客が電話口で泣き崩れる声を聞きながら、俺は心の中で必死に自分に言い聞かせた。
「これも家族のためだ」 「俺が稼がなければ、家族が困る」 「これは仕事なんだ。感情を持ち込んではいけない」
でも、これもサラ金だけの話じゃない。
IT業界で下請けを叩く営業マン。 商社で途上国の労働者を搾取する商談。 メーカーで環境を破壊する工場運営。
みんな、心を殺して働いている。 「家族のため」という大義名分で。
でも、電話を切った後、俺の手は微かに震えていた。心の奥で小さな声が囁く。
「本当にこれでいいのか?」
その声を押し殺すために、俺はより冷酷になった。感情を完全に殺すことが、唯一の逃げ道だった。
毎晩、家に帰る車の中で、俺は自分に言い聞かせ続けた。
「家族のためなら何でもする」
その言葉を呪文のように唱えることで、心の痛みを麻痺させていた。
決定的な対比
ある日、40代の男性客の家を訪問した。 玄関を開けたのは、小学生くらいの女の子だった。
「お父さんは、いません」
怯えた目で俺を見上げる少女。 その瞳に映る恐怖が、俺の胸に突き刺さった。
でも、立ち止まるわけにはいかない。 仕事なんだ。 感情は邪魔でしかない。
その向こうで、父親が息を潜めているのがわかった。
家族を守ろうと必死になっている父親の気配を感じながら、俺は冷たく言い放った。
「お父さんに伝えてや。明日までに金かえさんと、どないなるかわかっとるかって」
少女の目に涙が浮かんだ。 でも、俺は振り返らなかった。 振り返ったら、この仕事を続けられなくなる。
車に戻ると、俺の手は震えていた。ハンドルを握る指に力が入らない。
「家族のためだ」
何度も自分に言い聞かせながら家路についた。
その夜、家に帰ると娘が宿題をしていた。
「お父さん、これ教えて」
算数のドリルを持ってくる娘。 その笑顔を見た瞬間、俺の胸に激痛が走った。
さっき訪問した家の少女と、同じくらいの年齢。 同じように純粋な瞳。
でも、一方は俺を恐怖の目で見つめ、もう一方は俺を信頼の目で見つめている。
「ごめん、お父さん疲れてるから、お母さんに聞いて」
娘は寂しそうに部屋に戻っていった。 その小さな背中を見ながら、俺の心は引き裂かれそうになった。
俺は缶ビールを開けながら、ぼんやりと考えた。
「俺は、誰を幸せにしてるんだろう」
アルコールが喉を通る。 でも、心の奥の苦さは消えてくれない。
今日泣かせた少女の顔と、今寂しそうに部屋に戻った娘の顔が、頭の中で重なり続けた。
「明日も頑張ろう」
その言葉を口にしても、もう心には響かなかった。空虚な音が、部屋に響くだけだった。
でも、その疑問もアルコールで無理やり流した。 立ち止まったら、すべてが崩れ落ちる気がしたから。
参観日での衝撃的な遭遇
転機は、娘の小学校の参観日に訪れた。
「今日くらいは行ってやって」
妻の言葉には、諦めにも似た響きがあった。俺への期待を、もう持っていないかのような。
久しぶりに仕事を抜け出して学校に向かう車の中で、俺は少し緊張していた。いつから娘の学校行事に参加していなかっただろう。
そうだ、俺は「良い父親」を演じなければならない。 今日だけは、普通の父親でいよう。
教室に入った瞬間、俺の血の気が引いた。
最前列に立っている男。 見覚えがあった。
数日前、俺がギリギリまで追い込んだ男だった。ヤクザまがいの風貌で、最後は土下座までさせた男。あの時、俺は彼の尊厳を徹底的に踏みにじった。
なぜ、ここに。
なぜ、娘の学校に。
心臓の鼓動が激しくなる。 全身から血の気が引き、足が震え始める。
向こうも俺に気づいた。 一瞬、目が合う。
その瞬間、男の表情が変わった。驚きから、怒り、そして何か複雑な感情へと。
あの目。 俺が奪った父親としての尊厳。 子どもの前で這いつくばらせた屈辱。 すべてが、あの瞳に込められている。
男の隣に座っている男の子が振り返って言った。 「お父さん、あの人この前の…」
その声に呼ばれるように、無邪気に俺の娘が駆け寄ってきた。 「おとーさーん♪」
俺の足に抱きつく娘。 その温もりを感じながら、俺の頭の中では警報が鳴り響いていた。
お父さんが、目の前にいる子のお父さんを辱めたことを。
お父さんが、どれだけ多くの子どもたちを泣かせてきたかを。
「バレた」 「顔が割れた」 「こいつ、娘を──」
冷や汗が背中を流れ落ちる。シャツが肌に張り付く。教室の温度が急に上がったような錯覚に陥った。
俺の仕事が、俺の家族を危険に晒している。 俺の「家族のため」が、実は家族を危険に晒している。
その事実が、頭の中で爆発した。
授業が始まっても、俺は先生の話が一言も頭に入らなかった。
あの男の視線が、時折俺に向けられているのを感じる。その度に、背筋に氷のような冷たさが走る。
もし、あの男が俺への恨みを娘にぶつけたら。
もし、学校で「お前の父親は悪魔だ」と言いふらしたら。
もし、娘が危険な目に遭ったら。
想像するだけで、呼吸が浅くなった。動悸が喉元まで上がってくるような感覚。
これが結果なのか。 俺が守ろうとしていた家族を、俺自身が危険に晒している。
「お父さん、見て見て!」
娘が作った工作を嬉しそうに見せてくる。その純粋な笑顔を見て、俺の心は完全に砕け散った。
この子は何も知らない。 お父さんが何をしているかも。 お父さんがどんな敵を作ってきたかも。
「子どものため」という言葉の重み
授業が終わり、廊下で男とすれ違った。 俺は必死に平静を装ったが内心は戦慄していた。
男は俺をじっと見つめ、そして小さくつぶやいた。
「お互い、子どものためですもんね」
その言葉が俺の心臓に突き刺さった。
「子どものため」
その言葉の重み。 その言葉に込められた皮肉。 その言葉が暴く、俺の偽善。
それだけ言って、息子の手を引いて去っていく男の後ろ姿を見ながら、俺は廊下に立ち尽くした。
「子どものため」
その言葉が頭の中で何度も反響する。
あの男も、俺と同じだった。 子どものために必死で生きている。 だから俺に土下座してでも、返済を待ってもらわなければならなかった。
でも俺は、その「子どものため」を踏みにじっていた。
あの男の息子の前で、父親を屈辱的に扱った。 家族を守ろうと必死になっている父親を子どもが見ている前で辱めた。
「家族のため」と言いながら、他人の家族を破壊していた。 そして今、その報いが、俺の家族にまで及ぼうとしている。
俺の足が震えた。 膝がガクガクと崩れそうになる。
娘が俺の手を握って言った。 「お父さん、顔がすごく怖いよ。こわいよ…」
その純粋な心配の声を聞いて、俺の心は完全に砕け散った。
俺は何をしてきたんだ。 俺は誰を守ってきたんだ。 これが「家族のため」なのか。
教室から出てくる子どもたちの声が、遠く聞こえる。 その中に、あの男の息子の声も混じっているはずだ。
俺が屈辱を与えた父親の大切な息子。
すべてが繋がった瞬間だった。
「家族のため」という大義名分は、ただの自己正当化だった。
俺が本当に守りたかったのは、家族ではなく、「成功している父親」という自分のプライドだった。
その事実が、俺の心に深々と突き刺さった。
まだ間に合う。今この瞬間から変われる
でも、その時俺は気づいた。
まだ間に合う。
娘が「お父さんが一番好きだった」と言ってくれたあの瞬間が、すべてを物語っている。
子どもが欲しいのは、お金でも豪華な生活でもない。 ただ、お父さんと一緒にいる時間だった。
その夜、俺は初めて家族とちゃんと向き合った。
いつものように缶ビールに手を伸ばしかけて、やめた。 アルコールで誤魔化すのは、もう終わりにしよう。
妻はテレビを見ながら、何気なく言った。 「参観日、どうだった?」
どうだった?
地獄だった。 俺の人生が崩れ落ちた。
でも、俺は答えられなかった。何と説明すればいいのか。
「お父さんの仕事って、どんな仕事?」
娘の質問が、胸に突き刺さった。
いつもなら適当に答えていた質問。でも今夜は違った。俺は娘の目を真っ直ぐ見つめて、答えられなかった。
「お金を貸して、利息をもらう仕事だよ」 「お金を貸しちゃうの?じゃー困ってる人を助ける仕事?」
困ってる人を助ける?
違う。 全部嘘だ。
俺がやってきたのは困ってる人をさらに追い込む仕事。
家族を愛している父親を、子どもの前で屈辱的に扱う仕事。
「お父さん?」
娘の心配そうな声で、俺は現実に戻った。
俺の頬に、涙が伝っていた。
この子に、本当のことを言えるのか。 お父さんは悪いことをしている。 お父さんは人を苦しめている。 お父さんは「家族のため」と言いながら、実は自分のプライドのためだけに働いている。
「ごめん、お父さん少し疲れてるから」
娘は心配そうに俺の顔を見つめていた。その純粋な瞳を見つめながら俺は決意した。
もう、この子を騙すのはやめよう。
もう、「家族のため」という嘘で自分を正当化するのはやめよう。
明日から変えられる、5つの小さな行動
その夜、俺は自分に誓った。 明日から変えられることがある。
1. スマホを置いて、子どもの話を聞く
仕事のメールが来ても、子どもとの会話を優先する。
「ちょっと待って」ではなく、「今、お父さんは君の話を聞いている」
2. 「忙しい」を言い訳にしない
本当に忙しいのではない。優先順位を間違えているだけ。
子どもの「これ見て」に必ず答える。
3. 週に一度は、家族だけの時間を作る
どんなに仕事が忙しくても、家族との約束は絶対に守る。
その時間は仕事のことを一切考えない。
4. 子どもの行事は、最優先で参加する
運動会、参観日、発表会。
「仕事次第」ではなく、「絶対に行く」と約束する。
5. 毎日、子どもとの時間を30分確保する
本を読んであげる。宿題を見る。ただ話を聞く。
30分でいい。その30分は、子どもにとって何より貴重な時間になる。
小さな変化が、大きな転換点になる。
退職という決断
28歳、俺は退職を決意した。
その決断を妻に告げた夜のことは、今でも鮮明に覚えている。
「辞める?何それ、冗談でしょ?」
妻の顔は困惑から驚愕、そして怒りへと変わった。
「年収3000万円よ?それを捨てるの?」
妻の声は怒りと絶望で震えていた。俺にはその気持ちがよく分かった。でも、もう後戻りはできなかった。
「なんで?何かあったの?会社で何かトラブルでも?」
トラブル? トラブルどころじゃない。 俺の存在そのものがトラブルだった。
「いや、ただ……このままじゃいけないと思うんだ」
「何が?何がいけないの?私たちの生活?子どもたちの将来?」
妻の目に涙が浮かんだ。
「私たち、これからどうするの?子どもたちの教育費は?次の仕事も同じくらい貰えるの?住宅ローンは?」
すべて正論だった。
でも、俺の中で何かが壊れる音がした。
妻は知らない。
俺が毎日、誰かの父親を土下座させていることを。
俺が毎日、誰かの家族を泣かせていることを。
俺が参観日で感じた、あの絶望を。
「俺は、家族のために働いてきたんじゃなかったのか」
その言葉が、頭の中でぐるぐると回った。
でも、本当にそうだったのか?
本当に家族のためだったのか?
「あなた、頭大丈夫?急にどうしたの?」
妻の心配そうな顔を見ながら俺は気づいた。
妻も俺も、「家族のため」という言葉に騙されていた。
俺は「家族のため」という大義名分で、自分の承認欲求を満たしていただけ。
妻は「家族のため」という言葉で、俺の行いを見て見ぬふりをしていただけ。
二人とも、本当の意味で家族と向き合ってこなかった。
「なぁ、俺たちって幸せなんか?」
俺は妻に聞いた。
妻は言葉に詰まった。
「幸せよ。お金もあるし、家もあるし、何不自由ない生活をしてるじゃない」
お金。家。物質的な豊かさ。
でも、心の豊かさは? 家族の絆は? 本当の愛情は?
「娘の絵を見たことある?家族の絵」
妻は黙った。
「俺、描かれてないんだ。いつもいないから描けないって…」
その事実を口にしたとき、俺の涙が止まらなくなった。
年収3000万円を稼いでいても、娘の絵には存在しない父親。 それが俺の現実だった。
代償と得たもの
退職後、俺は必死に新しい道を探した。
転職活動をしても、サラ金出身者を快く迎える会社など、そう多くはなかった。
「家族を養うためなら何でもする」
そんな思いで始めたのが、木札ストラップの製造販売だった。
よさこい祭りのチーム向けに、オリジナルの木札を作って携帯ストラップにする小さな事業。
お客さんの喜びの顔をみて、これはいけると判断。ドコモ等携帯ショップを何店舗も運営している会社に
御社の新規客、機種変更客向けのノベルティにしませんか?と営業をかけまくった。数社と提携が決まり、翌週から注文のFAXが止まらなくなった。
家の一室を作業場にして夜遅くまで作業した。エポキシ樹脂の匂いが部屋に充満しても、これが家族のためだと信じて続けた。一時期は月商1000万円を超える売上を記録し、「やっぱり俺はやれるんだ」と自信を取り戻した。
しかし、長時間のエポキシ樹脂作業で体を壊した。24時間変な咳が止まらない、頭がボーッとして思考ができない。病院で診てもらったら重度の中毒症状で即入院。C型肝炎にも影響あり、GPT,GOTの値がどちらも600を超えている。絶対安静となり治療と療養で半年以上かかってしまい、事業は廃業せざるを得なくなった。
退院しても仕事が無く収入は激減した。 妻との関係も悪化した。
夜中、妻の泣く声が隣の部屋から聞こえてくる。その度に、俺の胸は痛んだ。
「俺が間違っているのか?」
そう思う夜もあった。
でも、不思議なことに、子どもたちとの距離は縮まった。
一緒に夕食を食べる。 宿題を見てやる。 週末は公園で遊ぶ。
当たり前のことが新鮮だった。
娘が宿題で困っているとき、俺は隣に座って一緒に考えた。以前なら「疲れてるから」と断っていたのに。
「お父さん、楽しいね」
娘のその言葉に、俺はハッとした。
年収3000万円稼いでいた頃より、確かに俺は笑っていた。
心の奥で燻っていた罪悪感が消えて、初めて娘と向き合えるようになった。娘の笑顔を心から愛おしく思えるようになった。
でも、代償も大きかった。
木札ストラップ事業の失敗で借金が残り、経済的な困窮が続いた。
妻は最後まで俺についてこようとしてくれたが、ついに限界を迎えた。
結局、俺は最初の家族を失った。 38歳で離婚。 子どもたちとも会えなくなった。
「家族のため」と言いながら家族を壊した。
離婚の日、妻が最後に言った言葉が忘れられない。
「あなたは正しかったのかもしれない。でも、私にはついて行けなかった」
その言葉に怒りはなかった。 ただ、ただ、深い悲しみがあった。
一人になったアパートで俺は泣いた。声を殺して泣き続けた。
愛していた。 妻も、子どもたちも、心から愛していた。
でも、その愛し方が間違っていた。
俺が守ろうとしていたのは、本当に家族だったのか。
それとも、「成功している父親」という自分のプライドだったのか。
その答えは、今でも分からない。
でも、一つだけ確信していることがある。
あの参観日で気づかなかったら、俺はもっと大きなものを失っていた。
自分自身を、完全に見失っていた。
20年後の再会
20年後、大腸がんが発覚したころ、娘から連絡が来た。
「お父さん、なんで連絡してくれなかったの?」
約20年ぶりの再会。 娘は立派な大人になっていた。
「お父さんが仕事辞めて、一緒に遊んでくれた時期があったでしょ。あの時のこと、今でも覚えてる。あの時のお父さんが、一番好きだった」
娘の言葉に、俺の涙が止まらなかった。
失ったものは大きかった。 でも、得たものも確実にあった。
年収3000万円より、娘との散歩。
立派な肩書きより、一緒に食べる夕食。
社会的成功より、心からの笑顔。
本当に大切なものは、いつもシンプルで、金では買えないものばかりだった。
あなたも、今この瞬間から変われる
この物語を読んでいるあなたも、同じような状況かもしれない。
働く父親のあなたは:
「家族のため」と言いながら、家族との時間を犠牲にしている。
仕事に追われて、子どもの成長を見逃している。
「お父さん」ではなく、「ATM」になってしまっている。
働く母親のあなたは:
「子どものため」と言いながら、キャリアと子育ての板挟みで苦しんでいる。
テレワークで家にいても、家事と仕事の境界線が見えない。
「私が頑張らなきゃ」という責任感に押し潰されそうになっている。
シングルペアレンツのあなたは:
一人で家計も子育ても背負い込んで、自分の時間が一切ない。
「この子のため」と言いながら、実は自分自身が限界を超えている。
周りに頼ることを「甘え」だと思い込んでしまっている。
でも、まだ間に合う。
今この瞬間から、変われる。
すべての働く親に共通する、明日から実践できる5つのこと:
- デバイスを置く時間を作る スマホ、PC、タブレット。すべてを置いて、子どもと向き合う時間を1日30分確保する
- 子どもの話を最後まで聞く 「後で」「忙しい」を禁句にして、子どもの話に耳を傾ける テレワーク中でも、子どもが話しかけてきたら一度手を止める
- 家族との約束を最優先にする どんなに仕事が忙しくても、子どもとの約束は絶対に守る シングルペアレンツなら、「今度」を言い訳にしない
- 「完璧な親」を目指さない 手作り弁当じゃなくてもいい。毎晩絵本を読めなくてもいい。 「一緒にいる」ことが、何より大切
- 助けを求めることを恥と思わない 実家、保育園、地域のサービス。使えるものは何でも使う 「自分一人で頑張る」ことが美徳ではない
働く母親・シングルマザー向けの特別なアドバイス:
- 「母親なんだから」という世間のプレッシャーを跳ね返す勇気を持つ
- キャリアを諦めることが「子どものため」ではない
- 自分自身が幸せでなければ、子どもも幸せになれない
働く父親・シングルファザー向けの特別なアドバイス:
- 「稼ぐ」ことだけが父親の役割ではない
- 子どもの感情に寄り添うことを恐れない
- 「男だから」「父親だから」という固定概念を捨てる
小さな変化が、家族との関係を劇的に変える。
俺のように、すべてを失ってから気づく必要はない。
今、この瞬間から始めれば、まだ間に合う。
あなたの子どもが描く家族の絵に、あなたも描かれているように。
「家族のため」という呪縛を解くには、時に大きな代償を伴う。 しかし、その代償を払ってでも守るべきものがある。 それは、家族との本当の絆だった。
そして、その絆は、お金では買えない。 時間と愛情でしか、育むことができない。
もし今、あなたが「家族のため」と言いながら家族を犠牲にしているなら、 立ち止まって考えてみてほしい。
本当に「家族のため」なのか。 それとも、「自分のプライド」のためなのか。
その答えが見つかったとき、あなたの人生は変わり始める。
俺のように、遠回りをする必要はない。
今この瞬間から、変われる。
まだ、間に合う。
次章は…
しかし、この「気づき」を得た代償は、俺が想像していたよりもはるかに大きかった。
サラ金を辞め、家族との時間を取り戻した俺を待っていたのは、新たな地獄の始まりだった。
木札ストラップ事業での成功と挫折。エポキシ樹脂中毒による体の破壊。取引先との信頼関係の崩壊。そして最終的な家族の離散。
「正しいことをしたはずなのに、なぜ全てを失うのか」
次の章では、俺が「家族のため」という呪縛から解放された後に直面した、より過酷な現実について語ろう。
健康と引き換えに得た一時の成功。そして、それすらも失った時に見えてきた「本当の成功」とは何だったのか――。
第4章:健康と引き換えの成功に、価値はあるのか
健康は成功のための道具ではない。人生そのものの、かけがえのない土台だ。私自身の自己破壊の経験が、それを証明している。燃え尽きる前に、その炎を静かに、そして長く燃やし続ける方法を考えよう。

2年間の自己破壊が教えてくれた「命の価値」
「堂本さん、C型肝炎がほぼ完治状態です。これは奇跡的な結果ですよ」
39歳の春、医師の言葉に俺は耳を疑った。
38歳から39歳までの1年間。ペグインターフェロンα-2bとリバビリンの組み合わせ治療を続けた。週1回の注射と、毎日の服薬。副作用もなく最後まで順調に継続することができた。
21歳の交通事故以来、18年間俺を蝕み続けたC型肝炎ウイルスが、ついに検出限界以下まで減少したのだ。
「これで思い切り働けるぞ」
皮肉なことに、俺が健康を取り戻したのは、すべてを失った後だった。
38歳で離婚。木札ストラップ事業は、エポキシ樹脂中毒で廃業。取引先の信用も、蓄えも、家族も失った。
でも、39歳で健康を取り戻した俺は、不思議と前向きだった。
「人生、ここからが本番だ」
健康な体で、俺は猛烈に働き始めた。
40歳、越境ECビジネスに参入。朝5時起床、深夜2時就寝。1日20時間労働も珍しくなかった。
でも、20代の頃とは違った。体が資本だということを、骨身に染みて理解していたから。
定期的な健康診断。バランスの良い食事。適度な運動。
「健康あっての成功」を肝に銘じて、戦略的に体をケアした。
その甲斐あって、事業は急成長した。
41歳で年商1億円突破。42歳で海外6カ国に展開。43歳で年商50億円。45歳で、ついに200億円の大台に乗った。
「40代は人生で一番充実していた」
今でも、そう断言できる。
健康な体があるからこそ、無限の可能性を感じられた。C型肝炎に苦しんだ18年間の分まで、思い切り人生を楽しんだ。
成功の代償:心の健康を見落とした
でも、成功には落とし穴があった。
体は健康でも、心は病んでいた。そのことに、気づかなかった。いや、気づこうとしなかった。
200億円という数字に酔いしれ、部下を人として見なくなり、金の亡者と化していった。
健康だったからこそ、俺は調子に乗った。「もう病気は克服した」という過信が、別の形で俺を蝕んでいった。
それは、精神的な不健康だった。
47歳、偽ブランド品事件で逮捕。すべてが明るみに出た。出品責任者と中国の取引先が持ち込んだ商品が、すべて偽ブランド品だった。知らなかったとはいえ、法的責任は免れない。
48歳、罰金50億円の判決。
築き上げた200億円の帝国が一瞬で崩れ落ちた。信頼していた部下たちは去り、取引先は手のひらを返し、口座は凍結された。
すべてを失った俺は酒に逃げた。
働かず、ただただ酒を飲む廃人生活
48歳から50歳まで。2年間。
俺は働くことを完全にやめた。
朝起きて、酒を飲む。昼も酒。夜も酒。食事代わりに酒。睡眠薬代わりに酒。
一日中、ただただ酒を飲み続ける生活。
「せっかく治したC型肝炎が再発したって構わない」「どうせ人生終わったんだ」
自暴自棄という言葉では足りない。完全な自己破壊行動だった。
外出もしない。人にも会わない。電話にも出ない。アパートの一室で、ただひたすら酒を飲み続けた。
コンビニで酒を買うときだけ外に出る。それ以外は、酒と一緒に部屋に引きこもり続けた。
39歳のときに必死で治療した意味が、すべて無駄になっていく。でも、止められなかった。
「健康な体を手に入れても、生きる意味を失ったら、人は簡単に自分を壊せる」
そのことを、身をもって証明していた。
鏡を見るのも嫌だった。顔はむくみ、目は血走り、体重は激増。39歳で手に入れた健康な体が、みるみる朽ちていく。でも、それすらどうでもよかった。
「もう終わりだ」「もう何もかも終わりだ」
そんな言葉を酒に向かってつぶやきながら、俺は自分を殺し続けていた。
体が発したSOS:立ちくらみとめまい
ある日の朝。いつものように酒を飲もうとして立ち上がった瞬間、激しい立ちくらみに襲われた。
「うわっ!」
壁に手をついて、なんとか倒れるのを防いだ。
「ちょっと飲みすぎたかな」
最初は軽く考えていた。でも、その日は何度も立ちくらみとめまいを繰り返した。
朝、昼、夕方。立ち上がるたびに、世界がぐるぐると回る。
「これは明らかにおかしい」
2年間、体の異変を無視し続けてきた俺でも、さすがに危険を感じた。
重い腰を上げて、かかりつけの個人病院に向かった。久しぶりの外出だった。
かかりつけ医の即断:「すぐに大病院へ」
「堂本さん、顔色悪いですね。最近どうされてました?」
優しい町医者の先生が、心配そうに俺を見つめた。
問診しながら、先生の表情がどんどん険しくなっていく。
「2年間、毎日酒を……立ちくらみとめめい……体重の増加……」
俺の話を聞きながら、先生はすぐに電話に手を伸ばした。
「はい、○○病院ですか?緊急で患者さんを送りたいんですが」
「え、今すぐですか?」
「はい。症状からして、精密検査が必要です。今すぐ向かってもらいます」
先生の迅速な判断に、俺は戸惑った。そんなに深刻な状況なのか。
「堂本さん、悪いことは言いません。今すぐ大病院に行ってください。検査入院になると思います」
その言葉の重みに、俺はようやく事態の深刻さを理解した。
検査入院:アルコールを抜いた体に見えた現実
大病院では、すぐに検査入院となった。
「まずはアルコールを完全に抜きましょう。数日後に詳しい検査をします」
看護師の指示で、俺は病室のベッドに横になった。
アルコールを抜く数日間は地獄だった。手の震え、冷や汗、幻覚。離脱症状に苦しみながら、俺は自分が何をしてきたのかを思い知った。
「俺、完全にアルコール依存症になってたんだな」
2年間の自己破壊が、ここまで体を蝕んでいたのか。
アルコールが抜けた数日後、採血と検便を行った。
そして、結果。
「+反応が出ています。詳しく調べる必要があります」
医師の表情が、一段と深刻になった。
胃カメラ:異常なし、しかし…
まずは胃カメラ検査。
「何か悪いものでも見つかったら、どうしよう」
初めて、死への恐怖を感じた。2年間「死んでもいい」と思いながら生きてきたのに、いざ病気の可能性を突きつけられると、生きたい気持ちが湧いてくる。
人間とは、なんと身勝手な生き物なのか。
胃カメラの結果は、異常なし。
「胃は大丈夫ですね。ただ、念のため大腸も詳しく調べましょう」
一時的に安堵したが、医師の表情は依然として険しかった。何かを疑っている。
大腸内視鏡検査:悪夢の発見
数日後、大腸の内視鏡検査。
検査中、モニターに映る自分の腸の様子を見ていた。最初は何も異常が見えなかった。
「大丈夫そうだな」
そう思った瞬間、医師が動きを止めた。
「……おっと……」
モニターに映った光景に、俺は息を呑んだ。
大きな腫瘍が3つ。明らかに異常な塊が、腸壁にこびりついている。
「すでに出血していますね。リンパ腺に転移している可能性も高いです」
医師の言葉が、遠くで聞こえる。頭の中が真っ白になった。
「生体検査をして、詳しく調べる必要があります」
がん。間違いなく、がんだった。
2年間の酒浸り生活の代償が、ついに現実となって現れた。
一時退院:結果を待つ恐怖の日々
生体検査を終え、一時退院。
結果が出るまでの数日間は、人生で最も長く感じられた時間だった。
アパートに戻っても、もう酒を飲む気にはなれなかった。代わりに、過去を振り返った。
39歳で手に入れた健康。40代の絶頂期。そして47歳からの転落。48歳からの自己破壊。
「俺は何をしてきたんだ」
C型肝炎を克服したとき、俺は誓ったはずだった。「もう二度と健康を軽視しない」と。
でも、心の健康を失ったとき、俺は体の健康も一緒に投げ捨てた。
「健康は、成功の道具じゃない。生きるための基盤なんだ」
50歳にして、ようやく気づいた。遅すぎた。
診察の日:ステージ3b、余命半年から1年
数日後、結果を聞きに病院へ向かった。
診察室に入ると、主治医の表情が全てを物語っていた。
「大腸がん、ステージ3bです」
「……」
「リンパ節への転移も確認されました。余命は、半年から1年程度と考えてください」
余命宣告。人生で初めて聞く言葉だった。
でも、俺は全然動じなかった。
「まぁ、とりあえず取ってよ」
自分でも驚くほどあっけらかんとした口調で言った。
もうどうでもよかった。どうせこんな生活してんだから、死んでもいいやって思ってた。
酒浸りな生活送ってんだから、大腸がんがあってもおかしくない。はいはい、そうですかって感じ。
2年間、自分で自分を壊し続けてきた結果がこれなら、まあ当然だろう。
主治医は呆れたような顔をしていた。看護師長が心配そうに声をかけてきた。
「連絡する身内はいませんか?」
その質問に、俺は即答した。
「一人もいません」
嘘だった。娘も息子もいる。
でも、何十年も疎遠になっている。今更、俺から「がんになった」なんて連絡したら迷惑だろう。
2年も酒浸りの生活したあげくに大腸がんだなんて、完全に自業自得だ。どの面下げて会えっちゅうのよ。
そんな気持ちで、「一人もいない」と言い切った。
実際、連絡する気もなかった。こんな状況になったのは全部俺の責任だ。家族を巻き込む理由はない。
主治医も看護師長も困った顔をしていたが、俺にはどうでもよかった。
「一人で十分だ」
そう思っていた。
「手術は翌月の第1週目の火曜日にしましょう。準備しておいてください」
手術前夜:完全な諦めと無感情
手術前夜、俺は病室で天井を見つめていた。
「明日、死ぬかもしれない」
でも、特に何も感じなかった。
後悔も恐怖も、特になかった。家族への想いが湧いてくることもなかった。
ただ、「はいはい、そうですか」という感じ。
2年間の酒浸り生活の結果がこれなら、まあ当然だろう。自業自得だ。
C型肝炎を克服したときは「これからが本当の人生だ」と思った。でも結局、自分で全部ぶち壊した。
200億円稼いだって何になる。家族も失った。健康も自分で捨てた。
もうどうでもいい。
明日手術で死んでも、別に構わない。
そんな感じで、俺は眠りについた。
手術:8時間の生死の境
手術は8時間に及んだ。
麻酔から目が覚めたとき、俺は泣いていた。
「生きてる」
ただそれだけのことが、奇跡のように感じられた。
看護師が驚いて声をかけてきた。
「大丈夫ですか?痛みますか?」
「いや、嬉しくて」
50歳にして初めて、命の尊さを実感した瞬間だった。
手術は成功した。腫瘍は全て摘出され、人工肛門も避けることができた。
でも、術後の抗がん剤治療が待っていた。まだまだ戦いは続く。
「でも、生きてる。まだチャンスがある」
そう思えただけで、世界が違って見えた。
術後2日目:予想外の連絡
術後2日目、病室で安静にしていたとき、携帯が鳴った。
見知らぬ番号だった。でも、なぜか出てみる気になった。
「はい」
「お父さん?」
娘の声だった。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。何十年も疎遠だった娘が、なぜ俺の病気を知っているのか。
驚きと嬉しさと戸惑いが一気に押し寄せた。
「なんで連絡してくれなかったの?」
怖かった。何て声かければいいのかわからなかったし、何を言われるのかもわからなかった。
でも、とりあえず電話に出てよかった。
複雑な気持ちでいっぱいだったが、娘の声を聞けただけで、なぜか安心した。
そこから、俺の人生は少しずつ変わり始めた。
退院後:価値観の完全な転換
退院後、俺の価値観は完全に変わった。
朝、目が覚める → 奇跡
息ができる → 感謝
食事が美味しい → 幸せ
歩ける → 喜び
当たり前だと思っていたことすべてが、実は奇跡の連続だった。
酒は一滴も飲まなくなった。代わりに、水の美味しさを知った。
運動を始めた。散歩するだけで、体が生きていることを実感できた。
規則正しい生活。バランスの良い食事。十分な睡眠。
2年間の自己破壊で失ったものを、少しずつ取り戻していく作業だった。
現在の俺:健康こそが最大の財産
心理カウンセラーとして働く今、俺は必ず健康の話をする。
「成功したいなら、まず健康を大切にしてください」
でも、多くの人は聞き流す。かつての俺と同じように。
ある40代の経営者が相談に来た。
「最近、疲れが取れないんです。でも、今が勝負どきで……」
俺は自分の経験を話した。
「私も40代は絶好調でした。C型肝炎を克服して、健康に自信があった。でも、その過信が命取りになりました」
「でも、堂本さんは200億まで行ったじゃないですか」
「そうです。そして、すべて失いました。健康も含めて」
彼は考え込んだ。
「健康と成功、両立できないんでしょうか」
「できます。ただし、優先順位を間違えなければ」
健康は基盤、成功は結果
健康は、基盤だ。その上に、仕事も、家族も、趣味も乗っかる。
基盤が崩れたら、すべてが崩れる。当たり前のことなのに、人は成功に目がくらむと、それを忘れる。
俺も忘れていた。
39歳で必死に治療して手に入れた健康。それを40代で使い倒し、50歳で自ら壊した。
「もったいない」では済まされない愚行だった。
でも、その愚行があったからこそ、今の俺がある。
今、60代の俺は、また健康と向き合っている。
毎朝の散歩。野菜中心の食事。定期的な検査。そして、心の健康も大切にしている。
収入は激減したけど、ストレスも激減した。地位は失ったけど、心の平安を得た。
「健康でいられる」
それだけで、人生は十分豊かだ。
教訓:自己破壊の恐ろしさ
この章で伝えたいのは、病気の怖さではない。自己破壊の恐ろしさだ。
失敗や絶望は、誰にでも訪れる。そのとき、人は自分を傷つけたくなる。
酒、暴食、不眠、引きこもり、ギャンブル。
「どうせ人生終わったんだ」という絶望感で、健康を投げ捨てたくなる。
でも、それは絶対にやってはいけない。
健康を失ったら、復活のチャンスまで失ってしまうから。
俺は運良く生き延びた。でも、もっと早期発見だったら。もっと転移が進んでいたら。
今、この文章を書くことはできなかった。
あなたに伝えたいこと
もしあなたが今、失敗や絶望の中にいるなら。
自分を傷つけるのは、今すぐやめてください。
酒で紛らわそうとするのも、やめてください。
不規則な生活で自分を痛めつけるのも、やめてください。
失敗は取り返せます。お金も取り戻せます。
でも、健康を失ったら、すべてが台無しになります。
俺のように2年間を無駄にして、がんになってから気づくのでは遅すぎます。
健康だけは、絶対に守ってください。
それが、再起への最低条件です。
健康と引き換えの成功に価値はない
20代で健康を無視し、30代で健康を取り戻し、40代で健康を過信し、50歳で健康を自ら破壊し、60代で健康の価値を知った。
長い回り道だった。でも、この経験があるから、俺は断言できる。
「健康と引き換えの成功に、価値はない」
どんなに金を稼いでも、病室では使えない。どんなに高い地位についても、がん細胞は忖度しない。
本当の成功とは、健康な体で、大切な人と、普通の日常を過ごすこと。
それ以上でも、それ以下でもない。
もしあなたが今、健康を犠牲にして働いているなら、
39歳で健康を取り戻し、40代で頂点を極め、50歳ですべてを失った俺から、一言。
「健康あっての人生です。優先順位を間違えないでください」
次の章では、俺が200億円稼いでも埋まらなかった「心の穴」について話そう。
部下の裏切りで失った50億円が教えてくれた、お金では買えない本当の価値とは――。
第5章:200億円稼いでも埋まらなかった「心の穴」の正体
金、地位、名声。私もそれらで心の穴を埋めようと必死だった。だが、200億円でも埋まらなかった穴が、なぜ、すべてを失った後に埋まったのか。その答えは、あなた自身の虚しさの正体を解き明かす鍵になる。

ラスベガス:成功の絶頂と奈落の始まり
「社長、ラスベガス最高っすね!」
部下たちの歓声が、カジノのフロアに響いていた。
200億円達成を祝って、俺は幹部たちと従業員をラスベガスに招待していた。パートの人たちも家族単位で招待し、VIPルームでのギャンブル、高級レストランでのディナー、最上階のスイートルーム。
「これが成功者の生活だ」
シャンパンを開けながら、俺は悦に入っていた。
47歳。人生の頂点。すべてが思い通りに進んでいるはずだった。
その時、俺の携帯が鳴った。日本からの緊急電話だった。
「社長、大変です!税関で大量の偽物が……」
衝撃の事実:出品担当者の失踪
酔いが一瞬で覚めた。
「偽物?何の話だ」
「中国から輸入した商品が、全部偽ブランド品だったんです。出品担当のリーという男が……」
リー。俺が運営責任者から報告を受けていた、出品作業の担当者だった。
「出品作業がままならないので、一人雇いたい」という連絡があり、運営責任者に任せていた。面接も採用も、すべて現場に一任していた。
俺がリーと直接会ったのは、数回程度。一言二言話した程度の関係。
「仕事は物覚えも早く、手先も器用で、そつなく何でもこなす優秀人材です」
運営責任者からはそう聞いていたので、安心していた。
「リーはどこだ」
「それが……連絡が取れないんです。昨日から姿が見えません」
リーはこのラスベガスパーティーには参加していなかった。日本で出品作業を続けているはずだった。
「まさか、このタイミングを狙って……」
俺の背筋に冷たいものが走った。
みんながラスベガスで浮かれている間に、リーは計画的に高跳びしたのか。
翌日、俺は急遽帰国した。
まずリーのマンションに向かった。高級タワーマンションの一室。会社が借り上げて、彼に提供していた部屋だ。
管理人に事情を説明し、合鍵で部屋を開けた瞬間、愕然とした。
ゴミが散乱して、とても高級マンションの一室とは思えないひどい有様だった。
空のカップ麺の容器、食べかけの弁当、空き缶、タバコの吸い殻。テーブルの上も床も、ゴミだらけ。
冷蔵庫を開けると、腐りかけた野菜と牛乳。机の上には、飲みかけのコーヒーカップ。
「こんな生活をしていたのか……」
洗面所に行くと、歯ブラシが3本、コップが4個。明らかにリー一人では使い切れない数だった。
「数人で住んでいたのか」
3-4人は同居していたようだった。でも、全員消えている。
クローゼットを開けると、安い服が数着だけ。俺が知っていたリーは、いつも清潔で身なりを整えていたのに。
「あれも演技だったのか……」
部屋全体を見回しても、リーの人となりを示すものは何もなかった。趣味の品も、家族の写真も、個人的な手紙も何もない。
まるで、最初から存在しなかった人間のような部屋だった。
必死の捜索:50億円の代償
すぐに中国の知人に連絡を取った。
「金はいくらでも出す。リーを見つけてくれ」
中国は広い。14億の人口の中に、一人の人間が消えたら、もう見つからない。
俺は中国マフィアにも手を回した。捜索費用だけで数千万円をつぎ込んだ。
「リー・チェンという男を探している。こいつの写真だ」
マフィアのボスは写真を見て、苦笑いを浮かべた。
「この顔、何人も知ってるよ。みんな違う名前で生きてる。この業界じゃ有名な顔だ」
「有名?」
「プロの詐欺師。偽ブランド品のネットワークを作るのが専門。アメリカでも、日本でも、何度も姿を変えて同じことをやってる」
俺の心臓が止まりそうになった。
「じゃあ、俺は最初から騙されていたのか」
「そういうことだ。あんたは、いいカモだったんだよ」
やがて、恐ろしい全貌が明らかになった。
リーは俺の会社の看板を使って、大規模な偽ブランド品製造・販売網を構築していた。中国の工場では、有名ブランドの偽物を大量製造。それをアメリカのeBayや各国のAmazon、6カ国の直売店で本物として販売していた。
被害総額は数十億円。被害を受けたアメリカの有名ブランド企業が、俺を訴えた。
「リーはどこの工場と契約していたんですか?」
調査会社の報告書を見て、俺は絶句した。
リーが「信頼できる取引先」として紹介してくれた中国の工場は、すべて偽ブランド品の製造工場だった。俺が「品質の良い商品を安く仕入れている」と思っていたものは、全部偽物だった。
「知らなかった」では済まされない。経営者には管理責任がある。
アメリカの法律は厳しい。知的財産権侵害、組織的詐欺、マネーロンダリング。俺には重大な罪状がいくつも課せられた。
アメリカの法廷:屈辱の裁判
47歳、俺はアメリカの法廷に立った。
法廷は俺が想像していたものとは全く違った。陪審員たちの冷たい視線が、針のように俺を刺す。
「私は騙されたんです。従業員のリーという男に完全に騙されました」
弁護士と一緒に必死に弁明した。
でも、検察側は容赦なかった。
「あなたは部下の管理を怠った。200億円も稼ぐ会社の社長が、『知らなかった』で済むと思うのか」
「被害を受けたブランド企業は何十社にも及ぶ。あなたの『知らなかった』で、どれだけの企業が損害を受けたと思うのか」
反論できなかった。
確かに、俺はリーのことを何も知らなかった。面識もほとんどなく、採用も現場任せ。彼が何をしているかなんて、詳細をチェックしていなかった。
「信頼していた」なんて言い訳に過ぎない。信頼する前に、きちんと管理する責任があった。
俺は金儲けのことしか考えていなかった。部下が何をしているかなんて、どうでもよかった。結果さえ出していれば、それで満足だった。
だから、リーに裏切られても仕方がなかった。
判決の日:50億円の現実
48歳、判決が下った。
「被告人、堂本晃聖。組織的知的財産権侵害、詐欺的商行為による重大な監督責任の懈怠により、罰金30億円、懲役7年を言い渡す」
法廷で判決を聞いたとき、足元が崩れ落ちる感覚に襲われた。
しかし、訴訟費用、和解金、その他諸々を含めると、総額は50億円近くに膨れ上がった。幸い、弁護士の必死の交渉で実刑は執行猶予付きになったが、金銭的な責任は免れなかった。
「50億円……」
200億円稼いだ男が、一瞬にして50億円の借金を背負う。人生とは、なんと皮肉なものか。
法廷を出るとき、俺の前を通り過ぎた被害企業の代表者が言った。
「あなたのような人間が、ビジネスを汚している」
その言葉が、俺の心に深く突き刺さった。
全財産処分:友達だと思っていた人たちの本性
判決後、俺は必死に金をかき集めた。
会社を清算し、共同事業の会社は譲渡、不動産はすべて売却、株も貯金も吐き出した。が、それでも足りない。
友人、知人に土下座して借金を申し込み、プライドも何もかなぐり捨てて金をかき集めた。
でも、一番辛かったのは、人々の反応だった。
あれだけ持ち上げてくれた部下たちは、蜘蛛の子を散らすように消えた。
「社長、すみません。家族がいるんで……」
「俺も生活があるんで……」
「こんなことになるとは思わなくて……」
200億円の会社の幹部だった連中が、手のひらを返したように去っていく。
「友達」だと思っていた経営者たちも同じだった。
「堂本さん、申し訳ないけど、うちも余裕がなくて……」
「今度の件で、うちも銀行から厳しく言われてて……」
ゴルフ仲間、飲み仲間、一緒に海外旅行に行った仲間たち。みんな、俺から離れていった。
誰も俺を助けてくれなかった。当たり前だ。沈む船からは、誰だって逃げ出す。
すべてを失って、俺は考えた。
なぜリーは俺を騙したのか。いや、そもそも俺とリーの間に、関係なんてあったのか。
思い返せば、俺はリーのことを何も知らなかった。
数回しか会ったことがなく、一言二言話した程度。彼の家族構成も、誕生日も、趣味も、出身地も、夢も、何ひとつ知らなかった。
運営責任者から「優秀な人材です」と聞いただけ。「仕事ができる奴」としてしか、認識していなかった。
そんな薄っぺらい関係で、彼に出品作業を任せていた。騙されて当然だった。
でも、これはリーだけの話じゃない。
俺は他の部下たちのことも、何も知らなかった。
運営責任者でさえ、3年間一緒に働いていたのに、知っていたのは彼が「仕事ができる」ということだけ。家族のことも、プライベートなことも一切知らなかった。
ある日、運営責任者が風邪で休んだとき、俺は何も心配しなかった。翌日出社した彼に「大丈夫か?」と聞くこともしなかった。
彼が「実家に帰ります」と言ったとき、俺は「いつ戻る?」とだけ聞いた。どこの実家で、誰に会うのかなんて、興味もなかった。
彼が新しいスーツを着てきたとき、俺は「似合ってるな」と社交辞令を言った。でも、なぜ新しいスーツを買ったのか、どんな気持ちで選んだのかなんて考えもしなかった。
部下は全員、俺にとって「金を稼ぐ道具」でしかなかった。
結果を出してくれれば、それで満足。その裏で何をしているかなんて、どうでもよかった。
だから、リーに裏切られても仕方がなかった。
2年間の地獄:死ぬのもめんどくさい日々
50億円の借金を背負った俺は、完全に自暴自棄になった。
48歳から50歳まで。2年間。俺は働くことを完全にやめた。
ボロアパートの一室。万年床。カーテンは閉めたまま。日当たりの悪い部屋なので、外に出ないと朝なのか夜なのかわからない。
髪もひげも伸び放題。風呂も入ったり入らなかったり。服は何日着てるのかわからない。下着を取り替えたのもわからない。
そんなのはどうでもよかった。
朝起きると、まず酒。昼飯代わりに酒。夜も酒。一日中、ただただ酒を飲み続ける生活。
ただ今日も生きてるのか、生きてるのめんどくさいな。
今日もう死んじゃうか、あれ?どうやって死ぬんだっけ?
首吊るんだっけ?
首吊るのって太いロープいるな、この部屋にないな、買いに行くのめんどくさ…
手首切ればいいんだっけ?
台所まで数歩。それでも包丁取りに行くのめんどくさい。あ~もぅ、手首切るのもめんどくさい。
って自暴もいいところだった。今思えば完全に重度の鬱である。
酒は買いに行くくせに死ぬのはめんどくさいという矛盾。もう思考もめちゃくちゃだった。
しまいには、息するのもめんどくさいと思うようになる。だけど息してるこの矛盾…
テレビを見ても、成功者たちの姿が映る。昔の俺のような連中が、得意げに語っている。
「俺たちは信頼関係を大切にしています」 「部下との絆が我々の強みです」
嘘だ。全部嘘だ。
俺も同じことを言っていた。でも、実際には部下のことなんて何も知らなかった。
コンビニで酒を買うとき、店員の若い女の子が俺を見る目が冷たかった。昼間から酒を買う、ホームレスみたいに臭い、みすぼらしい中年男。俺はそんな存在になっていた。
「軽蔑した冷めた目でみやがって…」
でも、どうでもよかった。もう何もかも、どうでもよかった。
200億円稼いで、何が残った?
答えは、「何も残らなかった」。いや、正確には「50億円の負債」が残った。
金の上に築いた城は、金と共に崩れ去る。当たり前のことなのに、俺は気づかなかった。
50歳の朝:死の淵から見えた真実
ある日の朝、いつものように酒を飲もうとして立ち上がった瞬間、激しい立ちくらみに襲われた。
その後の展開は、第4章で書いた通りだ。大腸がん、ステージ3b。余命半年から1年。
「まぁ、とりあえず取ってよ」
そうあっけらかんと言った俺だったが、手術が成功して生き延びたとき、初めて理解した。
俺が本当に求めていたのは、金じゃなかった。
7歳で母に捨てられたあの日から、俺の心には巨大な「穴」が開いていた。愛情の穴。承認の穴。存在価値の穴。
その穴を埋めるために、俺は金を追い求めた。
「金があれば愛される」 「成功すれば認められる」 「200億円稼げば、誰からも必要とされる」
でも、それは幻想だった。
金で買えるのは、表面的な関係だけ。リーとの関係が、まさにそれだった。部下たちとの関係も、友人たちとの関係も、全部同じ。
金がある間は笑顔で近づいてくるが、金がなくなれば手のひらを返す。
「心の穴」は、金では埋まらない。人との本当の繋がりでしか埋まらない。
がんから生還:心理カウンセラーへの道
がんから生還後、俺は心理学を学び始めた。
「なぜ今さら勉強?」
周りは不思議がった。50歳で、がんで、貯金もない男が、何を学ぶのかと。
でも、俺には明確な理由があった。
「残された時間で、一人でも多くの人を救いたい」
自分が苦しんだ分、人の苦しみがわかる。どん底を知っている分、這い上がり方も知っている。
その経験を体系的な知識と組み合わせれば、もっと多くの人の役に立てる。
資格を取得し、カウンセラーとして活動を始めて驚いた。
相談者が、次から次へとやってくるのだ。
「堂本さんの話を聞きたくて」 「どん底から這い上がった人に相談したくて」
俺の経歴は包み隠さず公開していた。
元孤児、元犯罪者、200億円の社長、50億円の負債、がんサバイバー。
普通なら恥ずかしくて隠したくなる過去。でも、俺にはもう隠すものがなかった。
むしろ、その過去こそが、俺の最大の武器だった。
ある日、40代の男性が相談に来た。
「もう人生終わりです。会社が倒産して、借金が3000万。死んだ方がマシです」
俺は答えた。
「私は50億でしたよ。でも、生きてます」
彼は目を丸くした。
「50億!?」
「はい。偽ブランド品事件で、アメリカの裁判所から50億円の支払いを命じられました」
「それで、どうやって……」
「全財産を処分しても足りなくて、親戚中に頭を下げて、借金しまくって、何とか支払いました」
彼の表情が変わった。
「堂本さんも、そんな経験を……」
「はい。あなたより辛い思いをしました。でも、今はこうして生きています」
その時、初めて感じた。
「人の役に立っている」という実感。
200億円稼いでいた頃、俺は多くの人を雇用していた。「社会貢献している」と思っていた。でも、それは違った。ただ金を稼ぐための道具として、人を使っていただけ。
でも、カウンセラーとしての俺は違う。
一人一人の心に寄り添い、その人の人生を本気で考える。金銭的な見返りは少ないが、心の充実感は200億円の時よりもはるかに大きい。
ある日、50代の女性経営者が相談に来た。
「年商20億円の会社を経営しています。でも、虚しくて仕方ありません」
俺は聞いた。
「その20億円で、何を買いましたか?」
彼女は考え込んで、答えた。
「高級車、豪邸、ブランド品……でも、どれも心を満たしてくれない」
「当然です。心の穴は、物では埋まりません」
「じゃあ、何で埋まるんですか?」
「人との繋がりです。本物の繋がりです」
彼女は涙を流した。
「私、誰とも本当の関係を築けていません。従業員も、取引先も、友人も、みんな私の会社や地位目当て」
「私も同じでした。200億円の会社の社長だった頃、誰も私自身を見てくれませんでした」
「どうやって、本物の関係を築くんですか?」
「まず、相手を人として見ることです。利用価値ではなく、一人の人間として」
その後、彼女は会社の方針を変えた。従業員一人一人と面談し、その人の夢や悩みを聞くようになった。売上は少し下がったが、従業員の表情が明らかに変わった。
数ヶ月後、彼女から連絡があった。
「堂本さん、ありがとうございました。初めて、従業員から『社長、お疲れ様です』と言われて、心から感謝されている実感がありました」
その時、俺は確信した。
本当の成功とは、金額ではない。人との本物の関係を築くこと。
リーを恨んでいるか?管理責任の重さ
よく聞かれる。
「リーを恨んでいますか?」
正直、恨む気持ちはもうない。自分への怒りの方が大きい。
リーは確かに詐欺師だった。でも、俺にも重大な責任がある。
部下の管理を怠った。面識もほとんどない人間に、重要な業務を任せた。運営責任者に丸投げして、自分は結果だけを求めた。
「知らなかった」では済まされない。経営者として、管理責任があった。
50億円は高い授業料だった。でも、学んだことも大きかった。
「人を人として見ない関係に、信頼は生まれない」
「結果だけを求める管理は、必ず破綻する」
「経営者は、最後まで責任を負わなければならない」
もしリーが俺を騙さなかったら、俺は今でも同じ過ちを繰り返していただろう。部下を道具としてしか見ない経営者のままだった。
リーの裏切りによって、俺は経営者としての責任の重さを学んだ。
今思えば、リーも被害者だったのかもしれない。背後に大きな組織があって、彼もその歯車の一つだった可能性もある。
真相は闇の中だが、いまだに行方がわからないままである。
現在の俺:月収20万円の充実感
現在、心理カウンセラーとしての俺の月収は約20万円。
200億円の会社を経営していた頃の月収は、1億円を超えていた。
5000分の1に減った。
でも、不思議なことに、今の方がはるかに充実している。
朝起きるのが楽しみだ。今日はどんな人に出会えるだろう。どんな悩みを聞かせてもらえるだろう。
200億円の頃は、朝起きるのが憂鬱だった。今日も数字のことを考えなければならない。部下を管理しなければならない。でも、部下の心なんて、どうでもよかった。
今は違う。
相談者一人一人の顔が浮かぶ。あの人は元気にしているだろうか。あのアドバイスは役に立っただろうか。
金のためではなく、人のために働く。これが、本当の仕事だった。
200億円時代と今の違い:数字で測れない価値
200億円時代の俺:
- 毎朝、売上数字をチェック
- 部下の名前は知っているが、家族構成は知らない
- 接待では相手を値踏みしている
- 一人の時間が怖い(自分と向き合いたくない)
- 成功を誇示するための消費
- 常に競争相手を意識
- 孤独感を金で紛らわせる
現在の俺:
- 毎朝、今日会う人のことを考える
- 相談者の家族のことまで覚えている
- 相談者の幸せを本気で願っている
- 一人の時間も苦でない(自分を受け入れている)
- 必要なものだけを買う
- 他人との比較をしない
- 孤独感がない(本物の繋がりがある)
金額では測れない。でも、心の充実度は比較にならない。
心の穴の正体:7歳の俺が求めていたもの
50歳を過ぎて、ようやく理解した。
俺の心の穴の正体は、「無条件で愛されたい」という願いだった。
7歳で母に捨てられたとき、俺は思った。「俺が悪い子だから、捨てられたんだ」
それ以来、俺は「良い子」になろうとした。勉強ができて、お金を稼いで、成功して、みんなから褒められる「良い子」に。
でも、それは条件付きの愛だった。
成功している間は愛されるが、失敗したら捨てられる。まさに、母親にされたことと同じ。
本当に求めていたのは、無条件の愛。
成功していなくても、お金がなくても、がんになっても、「あなたがいるだけで嬉しい」と言ってくれる人。
カウンセラーになって、初めてそれを見つけた。
相談者たちは、俺の地位も財産も関係なく、「堂本さんがいてくれて良かった」と言ってくれる。
娘も、再会したとき言ってくれた。「お父さんがいるだけで嬉しい」
これが、俺が50年間探し続けていたものだった。
お金で買えない本当の価値
200億円稼いでも埋まらなかった心の穴。
その正体は、「本物の人間関係への渇望」だった。
リーの裏切りで失った50億円が教えてくれた、お金で買えない価値。
それは、「心を通わせる関係」だった。
金で繋がった関係は、金と共に消える。 でも、心で繋がった関係は、貧乏になっても、病気になっても、消えない。
もしあなたが今、成功しているのに虚しさを感じているなら。 周りにいる人たちが、あなたの地位や財産目当てだと感じているなら、一度、すべてを手放すことを考えてみてほしい。
本当に大切な人は、あなたが何も持っていなくても、そばにいてくれる。
その人たちとの関係こそが、人生最大の財産だ。
俺は50億円失って、初めてそれに気づいた。
あなたは、失う前に気づいてほしい。
次の章では、がん宣告で得た「究極の自由」について話そう。
余命宣告が「残り時間を最高密度で生きる許可証」になった日のことを——。
第6章:ステージ3bのがん宣告で得た、究極の自由
「死」を意識して初めて、人は本当の意味で「生」を始めるのかもしれない。私ががん宣告で手に入れたのは絶望ではなく、「究極の自由」だった。あなたを縛り付けている鎖は、あなたが思っているよりも、ずっと簡単に断ち切れる。

「失うものがない」からこそ見えた、本当の生き方
「ステージ3b。リンパ節への転移も確認されました。余命は、半年から1年程度と考えてください」
50歳。医師の宣告を聞いて、俺が最初に感じたのは恐怖ではなかった。
不思議なことに、安堵感だった。
「ようやく、すべてから解放される」
200億円の重圧から。50億円の借金から。他人の期待から。世間体から。
そして何より、「成功しなければならない」という呪縛から。
がんになって初めて、俺は自由になった。
これは、死の恐怖と向き合った男が見つけた、人生最後の宝物の話である。
退院の朝:新しい世界の始まり
手術から2週間後。退院の朝、俺は鏡を見て笑った。
髪は薄くなり、頬はこけて、明らかに病人の顔。昔なら人前に出るのも恥ずかしかっただろう。
でも、その朝は違った。
「どう見られても構わない」
心の底からそう思えた。もう演じる必要がない。「成功者」を装う必要もない。
病院の廊下を歩いていると、見舞い客らしき年配の女性が俺を見て小さくため息をついた。きっと「痛々しい」と思ったのだろう。
昔なら恥ずかしくて逃げ出していた。でも、俺はその女性に軽く会釈した。
「おはようございます」
彼女は驚いたような顔をして、慌てて会釈を返してくれた。
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
50年間背負ってきた「人にどう見られるか」という重荷が、ふわりと消えていく感覚。これが、「失うものがない」ということなのか。
コンビニでの小さな革命
退院後、初めてコンビニに買い物に行った。
レジで並んでいると、後ろの若いサラリーマンがイライラしているのがわかった。スマホをチラチラ見て、足でリズムを取って。
以前の俺と同じだった。常に時間に追われ、効率を求め、一分一秒を無駄にしたくない。
でも、今の俺は急ぐ理由がない。
「お先にどうぞ」
俺は彼に順番を譲った。
「え、いいんですか?ありがとうございます!」
彼は安堵の表情で先に会計を済ませた。店を出る時、振り返って深々と頭を下げてくれた。
たった30秒の出来事。でも、その30秒で二人とも笑顔になった。
絶頂期の頃、俺はこんな小さな親切をしたことがあっただろうか。常に自分のことしか考えていなかった。
がんになって時間が限られたからこそ、他人に時間を分けてあげられるようになった。矛盾しているようで、これが真実だった。
大家さんとの30分
アパートに戻ると、70歳を過ぎた大家さんが一人で階段の掃除をしていた。
「手伝いましょうか?」
自然にそう声をかけていた。以前なら絶対に関わりたくない面倒事だった。
「堂本さん、体は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。動いた方がリハビリになるって医者に言われてるんで」
一緒に掃除をしながら、大家さんがぽつりと話してくれた。
「実は息子が心配して、有料老人ホームに入れって言うんです。でも、ここは主人と一緒に建てた思い出の場所で…」
俺は黙って聞いた。アドバイスしようとも、解決してあげようとも思わなかった。ただ、聞いているだけで十分だった。
20分ほどで掃除は終わった。
「ありがとうございました。お話しできて、気持ちが楽になりました」
大家さんの笑顔を見て、俺は不思議な充実感を覚えた。
金をもらったわけでもない。称賛されたわけでもない。でも、心が満たされている。
櫻井先生の心理学講座で学んだ「傾聴」を、自然に実践していた。人の話をただ聞く。それだけで、相手の心が軽くなる。
これが、俺が50年間知らなかった「本当の豊かさ」だった。
櫻井先生との出会い:学びの再発見
心理学を学ぼうと決めて、横浜の櫻井先生のオンライン講座を受講し始めた。
50歳のがんサバイバーが、パソコンの前で真剣に勉強している。客観的に見れば滑稽な光景かもしれない。
でも、もうそんなことはどうでもよかった。
「今日は来談者中心療法について学びます。カウンセラーは相手を変えようとしません。ただ、その人の話を聞き、その人自身が答えを見つけるのを待ちます」
櫻井先生の説明を聞いて、俺はハッとした。
これって、俺が経営時代に社員の相談にのる時に、無意識にやっていたことじゃないか。
「社長、どうしたらいいでしょうか?」
悩みを抱えた部下に対して、俺は答えを教えるのではなく、質問を投げかけることが多かった。
「君はどう思う?」「どうなったら理想的?」「何が一番の問題だと思う?」
結果的に、部下が自分で答えを見つけることが多かった。そして、自分で見つけた答えの方が、うまくいくことが多かった。
講座が終わって、チャットで櫻井先生に質問した。
「先生、私は昔から人の相談にのるのが好きだったんですが、それって傾聴だったんでしょうか?」
「堂本さん、それは素晴らしいことです。天然で傾聴ができているということですね。今度、一度お話ししませんか?」
その後、櫻井先生とは釣りに行ったり、お酒を飲んだりする関係になった。
「堂本さんの人生経験は、カウンセラーにとって最高の財産ですよ」
先生のその言葉で、俺は自分の過去を恥じる必要がないことを知った。
母に捨てられたことも、犯罪に手を染めたことも、サラ金で人を苦しめたことも、50億円の借金も、がんも。
すべてが、今の俺を作った貴重な経験だった。
定食屋での発見:一人飯の哲学
夕食は、近所の「みどり食堂」
古い定食屋で、カウンターに座って焼き魚定食を食べている。
隣の席では、30代のサラリーマンがスマホを見ながら慌てて食べている。
仕事の電話がかかってきた。
「はい、お疲れさまです。そうですね、明日の件ですが…」
食事中なのに電話に出て、箸を置いてメモを取っている。せっかくの熱い味噌汁が冷めていく。
以前の俺も、まったく同じだった。食事中でも電話に出て、「忙しい俺」をアピールしていた。
今の俺は、ゆっくりと魚を食べた。小骨を丁寧に取りながら、一口一口味わって。
電話に出る必要もない。急ぐ必要もない。誰かを待たせているわけでもない。
「あの、お客さん」
店主のおばちゃんが声をかけてきた。
「何年か前に、忙しそうに食べてた人じゃない?」
俺は苦笑いした。
「そうかもしれません。あの頃は余裕がなくて」
「今の方がいいわよ。美味しそうに食べてくれるから、作った甲斐がある」
おばちゃんの何気ない言葉が胸に染みた。
料理は、作る人の愛情を食べる人が受け取る行為なんだ。急いで掻き込むのは、その愛情を無駄にすることだった。
隣のサラリーマンが慌てて店を出ていく。俺は最後の一口まで、丁寧に食べた。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「ありがとう。また来てね」
会社の接待で食べた高級料理より、このやり取りの方がずっと心に残った。
夜の散歩:街の新しい表情
アパートに戻って、いつものようにテレビをつけようとして、やめた。
代わりに、久しぶりに夜の散歩に出た。
住み慣れた街が全然違って見えた。
コンビニから出てきた女子高生が、友達と笑いながら歩いている。24時間営業のラーメン店では、夜勤明けらしき男性が一人で食事をしている。マンションの窓からは、家族団らんの温かな光が漏れている。
以前なら「うるさい」と感じていた生活音が、今は「生きている証拠」に聞こえた。
みんな、それぞれの人生を精一杯生きている。成功も失敗もない。ただ、生きている。
それだけで、素晴らしいことなんだ。
公園のベンチで空を見上げた。星は見えないけど、そこに宇宙があることを知っている。
俺も、この大きな宇宙の一部なんだ。ちっぽけな存在だけど、確実に存在している。
それで十分だった。
初めての相談者:本音の力
カウンセラーとして初めて相談を受けた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
40代の女性。離婚、借金、うつ病。俺と似たような境遇だった。
「もう生きていく意味がわからないんです」
彼女の言葉を聞いて、俺は迷わず答えた。
「私もそう思った時期がありました。50億円の借金を背負って、がんになって、本当に『なぜ生きているんだろう』と」
彼女の目が少し輝いた。
「堂本さんも、そんな経験を……」
「はい。2年間、毎日酒を飲んで、死にたいと思い続けました。でも、今はこうして生きています。そして、あなたの話を聞いています」
以前なら、自分の失敗談を話すなんて考えられなかった。カウンセラーは権威的であるべきだ、と思い込んでいた。
でも、がんになって「失うものがない」状態になったからこそ、本音で話せた。
「先生も同じ痛みを知ってるから、安心して話せます」
彼女の言葉で、俺は確信した。
完璧なカウンセラーを演じるより、欠陥だらけの人間として向き合う方が人の心に届く。
その結果、相談者との距離が一気に縮まった。
お金の呪縛からの解放
月収が1億円から20万円になった時のことも、今では笑い話だ。
通帳を見て、最初は愕然とした。でも、不思議と不安は長続きしなかった。
200万円あった頃は、常に「もっと欲しい」と思っていた。高級レストラン、ブランド品、見栄のための支出。
でも、20万円で生活してみると、本当に必要なものが見えてきた。
スーパーで98円の見切り弁当を買いながら、ふと思った。
「この弁当、前より美味しく感じる」
金額じゃない。心の状態が変わったんだ。
以前は、「安い食べ物を食べている惨めな自分」を意識していた。でも今は、「お腹が満たされる幸せ」を感じている。
同じ弁当なのに、受け取り方が180度変わった。
「お金がない」ことが、「自由」につながった。
買いたいものがないから、働く理由も変わった。「お金のため」ではなく、「人のため」に働く。
その方が、心が満たされた。
娘との20年ぶりの再会
がんの手術から2日目、病室で携帯が鳴った。見知らぬ番号だった。
「お父さん?」
娘の声だった。20年ぶりの声に、最初は何が起きたのかわからなかった。
「なんで連絡してくれなかったの?」
後で聞いたところ、娘の友人がこの病棟で看護師として働いており、入院患者リストで俺の名前を見つけて、娘に俺の携帯番号と手術したことを知らせてくれたのだという。
運命としか言いようがない偶然だった。
「迷惑をかけたくなくて…」
「迷惑だなんて思わない。お父さんは私の父親なんだから」
俺は泣いた。声を殺して泣いた。
「お父さんが仕事辞めて、一緒に遊んでくれた時期があったでしょ。あの時のこと、今でも覚えてる。あの時のお父さんが、一番好きだった」
娘の言葉に、俺の涙が止まらなくなった。
年収3000万円稼いでいた頃より、無職で一緒に過ごした数ヶ月の方が、娘の心に残っていた。
大切なのは、金額でも地位でもない。一緒にいる時間だった。
娘は続けた。
「今度、会いに行ってもいい?」
「もちろんだ。いつでも会いたい」
その日、俺は人生で初めて、心から「父親」になれた気がした。
時間という最大の財産:60歳からのAI勉強
「時間は有限」だと痛感したがん体験。でも、それは絶望ではなく、解放だった。
「いつかやろう」が「今やろう」に変わった。
60歳になってから、AIの勉強を始めた。
𝕏(旧Twitter)で流行りを追いかけるのではなく、なんとなく筋の通った感じがする男性がいたので、その人のZoomのAI相談に申し込んだ。
俺の相談にのってもらった後、「堂本さんの経歴がぜひ知りたい」ということで話したら、えらく興味を持ってくれた。
数日後、その人が名古屋まで会いに来てくれた。飯を食いながら話しているうちに、近いうちに法人を立ち上げるので経営顧問として入ってほしいとの打診を受けた。
20代3人でスタートするベンチャー企業。育てがいがあるなと思ったので快く引き受けた。
少額の報酬で経営全般についてのアドバイスをしている。これはこれで楽しい。
育てる喜びをまた味わえるとは想像もしてなかったので、生きがいができた。こちらこそ感謝している。
あの頃は「結果」だけを求めていた。でも今は、若い人たちの成長そのものが喜びだった。
「もう遅い」という言葉が、辞書から消えた。
人間は、何も証明しなくていい
がんになって気づいた最大の真実がある。
俺は50年間、常に何かを証明しようとしていた。
「俺は価値のある人間だ」「俺は成功している」「俺は尊敬されるべき人間だ」
でも、がんになった瞬間、そんなものはすべて無意味になった。
がん細胞は、俺の年収も地位も学歴も関係なく、体を蝕んでいく。死の前では、すべてが平等だ。
朝起きて、息をして、誰かと話して、食事をして、眠る。それだけで、完璧な一日だ。
成功する必要もない。偉くなる必要もない。誰かに認められる必要もない。
ただ、そこにいるだけでいい。
この境地に達した時、俺は本当の意味で「自由」になった。
今、60歳の俺は毎日こんな風に過ごしている。
朝6時:感謝の散歩 目が覚めること自体が奇跡。5分間の散歩で、生きていることを体で感じる。
午前:相談者との面談 月収20万円だけど、心は満たされている。一人一人の話に、全身全霊で向き合う。
昼:愛する人との食事 急がない。一緒に味わう。お互いに作ってくれることへの感謝を忘れない。失うものがないからこそ、純粋な愛情で繋がれる。
午後:勉強とベンチャー支援 年齢なんて関係ない。AIの勉強、若い起業家たちとのやりとり。学べることがある限り、人生は続く。
夕方:ベンチャー企業との時間 20代の起業家たちとの会議やアドバイス。結果より成長を見守る喜び。育てることの幸せを再発見。
夜:静かな時間 テレビを見ない日も多い。ただ、窓から街を眺めて、命あるものの営みを感じる。
誰かに認められる必要もない。何かを達成する必要もない。
ただ、今日という日を丁寧に生きる。それだけで十分だ。
あなたにも手放してほしい重荷
もしあなたが今、何かに縛られて生きているなら、
守ろうとしているもの、失いたくないもの、それって本当に大切ですか?
世間体、プライド、見栄、過去の成功、他人からの期待。
そういうものを一度、手放してみませんか?
がんになる必要はありません。でも、「失うものがない」状態を想像してみてください。
もし明日、すべてを失ったら、あなたには何が残りますか?
その「何か」こそが、本当のあなたです。
俺が50年かかって辿り着いた答えを、あなたはもっと早く見つけられるはずです。
なぜなら、このページを読んでいるということは、あなたはすでに「本当の生き方」を探しているのですから。
究極の自由とは:手放した瞬間に手に入るもの
がん宣告で得た「究極の自由」
それは、何も証明しなくていい自由。何も守らなくていい自由。何も怖がらなくていい自由。
失うものがないから、何でもできる。
期待されていないから、何をしても自由。
死ぬかもしれないから、今を全力で生きられる。
皮肉なことに、すべてを失った時、俺は本当の意味で「すべて」を手に入れた。
お金では買えない宝物を。
それは、「今、ここにいることの奇跡」を感じる力だった。
もしあなたも、この奇跡を感じたいなら重荷を手放してください。
がんになる前に。すべてを失う前に。
今この瞬間から、あなたも「究極の自由」を手に入れることができます。
次の章では、がんが教えてくれた最も大切な気づきについて話そう。
壊れた家族関係も、必ず修復できる。その証明を――。
第7章:壊れた家族関係も、必ず修復できる
12年という断絶でさえ、一つの勇気で繋がり直すことができた。時間は傷を癒さない。傷を癒すのは、過去を悔やむことではなく、今この瞬間から踏み出す小さな一歩の勇気だ。

20年ぶりの娘からのLINEが起こした奇跡の連鎖
「お父さん、大丈夫?」
術後のリハビリ中、病院のベッドでスマホを見ていた俺は、息を呑んだ。
差出人は、娘。 12年間、一度も連絡を取っていなかった娘からの、突然のLINEだった。
大腸がんの手術から2週間。 まだ歩くのもやっとの状態で、点滴につながれていた俺。
「これ、本当に娘からなのか……」
38歳で離婚したとき、娘は17歳の高校生だった。 今は29歳になっているはずだ。
手が震えた。 術後の体力低下のせいじゃない。 12年分の感情が、一気に溢れ出そうとしていた。
なぜ娘が連絡してきたのか。
後で聞いた話では、病院に勤めている娘の友人が、偶然俺の名前を見つけたらしい。
「堂本晃聖って、もしかして〇〇ちゃんのお父さん?」 「大腸がんで手術したみたいよ」
その一報を聞いた娘は、いてもたってもいられなくなったという。
12年間の沈黙を破って、娘は勇気を出してLINEを送ってきた。
返信しようとして、指が止まった。
29歳の娘。 もう立派な大人だ。 俺なんかいなくても、しっかり生きているだろう。
でも、連絡をくれた。 それだけで、涙が出た。
「ありがとう。手術は成功した。おまえの言葉で元気が出たよ」
既読がついた。 すぐに返信が来た。
「本当に大丈夫なの? 会いに行ってもいい?」
病室での再会:娘と孫娘との初対面
翌日、娘が病室に現れた。
「久しぶり」
12年ぶりに見る娘は、すっかり大人の女性になっていた。 でも、笑顔は高校生の頃のままだった。
隣に、小さな女の子が立っていた。
「この子は?」
「私の娘。8歳」
孫。 俺に孫がいたのか。
「実は、私もバツイチなの」
娘は苦笑いを浮かべた。
「おじいちゃん?」
人見知りしない孫娘が、ベッドに近づいてきた。
「そう、おじいちゃんだよ」
初めて会う孫。 小さな手が、俺の手に重ねられた。
「おじいちゃん、病気なの?」
「うん、でももう大丈夫」
「よかった」
屈託のない笑顔に、胸が熱くなった。
娘は静かに話し始めた。
「高校のとき、お父さんとお母さんが離婚して、正直ショックだった」
17歳。多感な時期だった。
「でも、お母さんから『お父さんは仕事で大変だから』って聞いて、連絡するのを我慢してた」
「ごめん……」
「謝らないで。私も理解してたから。お父さんは家族のために働いてたんだって」
でも、それは違った。 俺は自分のために働いていた。
「実は、私も同じ失敗をしたの」
娘の告白に、俺は驚いた。
「結婚して、仕事に夢中になって、家庭をおろそかにした。気づいたら、夫との心が離れてた」
バツイチになった理由。 それは、俺と同じ過ちだった。
「血は争えないね」
娘は自嘲気味に笑った。
「でも、この子がいてくれたから、私は変われた」
孫娘を見つめる娘の目は、優しい母親の目だった。
「お父さんに会いたかったのは、もう一つ理由があるの」
娘は真剣な表情になった。
「私、お父さんに謝りたかった」
「謝る? 何を?」
「12年間、連絡しなかったこと。お父さんだって、寂しかったでしょう?」
その通りだった。 でも、それは自業自得だと思っていた。
「お父さんが倒産したことも、借金のことも、後から知った。何もできなくて、ごめん」
「いや、君が謝ることじゃない」
「でも、娘なのに」
29歳の娘は、もう子どもじゃなかった。 親の苦労を理解し、親の立場で物事を考えられる大人になっていた。
「ママ、泣かないで」
孫娘が、娘の涙を小さな手で拭った。
その姿を見て、俺も泣いた。
3世代が、病室で涙を流していた。 でも、それは悲しみの涙じゃなかった。
再会の涙。 理解の涙。 そして、新しい始まりの涙だった。
退院後の新しい関係:定期的な交流の始まり
退院後、娘と孫娘は定期的に会いに来てくれるようになった。
「おじいちゃん、今日は何して遊ぶ?」
8歳の孫娘は、俺になついてくれた。
公園で遊び、 絵本を読み、 時には宿題を見てやる。
「おじいちゃん、優しいね」
孫娘の言葉に、娘が笑った。
「昔のお父さんからは、想像できない」
確かに、サラ金時代の俺を知る人が見たら、別人だと思うだろう。
ある日、娘が言った。
「お父さん、カウンセラーやってるんでしょ? 私も相談していい?」
「もちろん」
娘は、シングルマザーとしての悩みを話してくれた。 仕事と子育ての両立、将来への不安、時々襲ってくる孤独感。
「お父さんもシングルファーザーみたいなもんだったよね、離婚後は」
「まあ、そうだな」
「どうやって乗り越えたの?」
「乗り越えてない。ただ、流されてただけ」
正直に答えた。
「でも、今なら言える。家族を失って初めて、家族の大切さが分かった」
娘との関係が修復されて、頻繁に連絡を取るようになった。
主に孫娘のことで。
「今度の運動会、来れる?」 「もちろん」
孫娘のおじいちゃんは俺だけ。
運動会の日、俺と娘は並んで孫娘を応援した。
「あの子、足が速いでしょ」
「俺に似たんだ」
昔話に花が咲いた。 恨みも、後悔も、もうない。
家族関係修復の3つの条件
60歳の今、俺は思う。
家族関係は、壊れても修復できる。 ただし、それには条件がある。
まず、相手を責めないこと。
次に、自分の非を認めること。
そして、今を大切にすること。
過去は変えられない。 でも、今からの関係は作れる。
俺と娘は、12年の空白を埋めた。 それも、病気というきっかけがあったから。
でも、病気にならなくても、きっかけは作れる。
「元気?」 その一言から、すべては始まる。
29歳の娘と、8歳の孫娘。 バツイチ同士の親子。 複雑な家族関係。
でも、俺たちは「家族」だ。
血がつながっているから家族なんじゃない。 お互いを思いやり、支え合うから家族なんだ。
12年の断絶があったからこそ、今の関係を大切にできる。 失敗があったからこそ、同じ過ちを繰り返さない。
「おじいちゃん、大好き」
孫娘の言葉が、俺の生きる力になっている。
壊れた家族関係も、必ず修復できる。 諦めなければ、道は開ける。
俺たちが、その証明だ。
最終章では、あなたの人生も必ず「最高傑作」にできる理由について話そう。
次の一歩を踏み出す勇気が湧く、7つの問いかけと共に――。
終章:あなたの人生も、必ず「最高傑作」にできる
私の物語は、ここで終わる。だが、それはあなたの物語の始まりを意味する。ここに記された7つの問いは、あなたの人生という本の、白紙の1ページ目に書き込むための最初のインクだ。
次の一歩を踏み出す勇気が湧く、7つの問いかけ
この本を書き終えて、窓の外を見ている。 60歳、もうすぐ61歳。 人生の最終章に入った男が、自分の人生を振り返って思うこと。 それは、「なんて面白い人生だったんだ」という感慨だ。
7歳で母に捨てられ、 15歳で犯罪に手を染め、 20代はサラ金で人を追い込み、 38歳で家族を失い、 45歳で200億円を動かし、 48歳で50億円の負債を背負い、 50歳でがんになり、 そして60歳で、最高の幸せを手に入れた。
普通に考えれば、失敗だらけの人生だ。 でも、俺は胸を張って言える。 「これが、俺の最高傑作だ」と。
なぜ最高傑作なのか。
それは、すべての経験が「今」につながっているから。
母に捨てられた経験があるから、孤独な人の気持ちが分かる。
犯罪を犯した経験があるから、道を踏み外した人を責めない。
大金を稼いで失った経験があるから、本当の豊かさを知っている。
がんになった経験があるから、命の尊さを実感できる。
すべての点が線になって、今の俺を作っている。
あなたの人生はどうだろうか。
「失敗ばかり」と嘆いているかもしれない。
「つまらない人生」と諦めているかもしれない。
「もう手遅れ」と絶望しているかもしれない。
でも、ちょっと待ってほしい。
本当にそうだろうか。
ここで、あなたに7つの問いかけをしたい。
この問いに答えることで、あなたの人生の見方が変わるはずだ。
【問い1:あなたの「傷」は何ですか?】
誰もが心に傷を持っている。 裏切られた経験、失敗した記憶、失った大切なもの。 その傷を隠していませんか? でも、思い出してほしい。 傷こそが、あなたの最大の武器になる。 同じ痛みを知る人を、救える力になる。 俺の50億円の傷が、今では多くの人の希望になっているように。
【問い2:本当は何がしたいですか?】
世間体や常識を全部取り払って、素直に考えてみてください。 お金も、年齢も、制限も関係ない。 本当は何がしたい? その答えこそが、あなたの人生の羅針盤。 「今さら」なんて言葉は捨てて、「今から」始めればいい。
【問い3:誰かに伝えたいことはありませんか?】
心の中に、誰かに伝えたい言葉があるはずだ。 「ありがとう」「ごめん」「愛してる」 なぜ伝えない? プライド? 恥ずかしさ? タイミング? でも、明日があるとは限らない。 俺も、がん宣告を受けて初めて、娘に連絡した。 もっと早く伝えればよかったと、今でも思う。
【問い4:失ったものばかり数えていませんか?】
確かに、人生では多くのものを失う。 でも、失ったものを数えても、何も戻ってこない。 それより、今あるものを数えてみよう。 健康、家族、友人、経験、知識、時間。 俺は200億円失ったが、心の平安を得た。 あなたも、失った以上のものを、きっと得ているはずだ。
【問い5:本当の成功とは何だと思いますか?】
金? 地位? 名声? 俺はすべて手に入れて、すべて失った。 そして気づいた。 本当の成功とは、「今日を精一杯生きること」だと。 朝起きて、誰かの役に立ち、感謝して眠る。 この繰り返しこそが、最高の成功。 あなたの成功の定義は?
【問い6:残された時間で何を残したいですか?】
人生は有限だ。 30代でも、50代でも、70代でも、必ず終わりが来る。 その時、何を残したい? 財産? それは相続税で消える。 地位? それは退職と共に消える。 でも、誰かの心に残した温かい記憶は、永遠に生き続ける。 あなたは、どんな記憶を残したい?
【問い7:今日から何を始めますか?】
最後の問いは、最も重要だ。 この本を読み終えて、明日も同じ生活を続けますか? それとも、小さな一歩を踏み出しますか? その一歩は、本当に小さくていい。 誰かに「ありがとう」を言う。 新しいことに挑戦する。 昔の友人に連絡する。 なんでもいい。 大切なのは、「始める」こと。
俺の人生は、確かに波乱万丈だった。 でも、特別な人生じゃない。 誰の人生も、見方を変えれば「最高傑作」になる。 必要なのは、過去を受け入れる勇気。 現在を精一杯生きる覚悟。 そして、未来を信じる希望。
60歳の俺から、最後にメッセージを送りたい。
「あなたの人生は、まだ終わっていない」
「どんな過去も、これからの糧になる」
「年齢は、ただの数字に過ぎない」
「失敗は、成功の母じゃない。失敗こそが成功だ」
「誰かの評価より、自分の納得を大切に」
「完璧じゃないから、人間らしい」
「今日が、残りの人生の最初の日」
このページが、あなたの人生の転機になることを願っている。 俺にできたんだ。 あなたにできないはずがない。
母に捨てられた7歳の俺に教えてやりたい。 「お前の人生は、最高に面白くなるぞ」と。
50億円の借金を背負った48歳の俺に伝えたい。 「これで良かったんだ」と。
がんで死にかけた50歳の俺に言ってやりたい。 「まだまだ、これからだ」と。
そして、今このページを読んでいるあなたに、断言したい。 「あなたの人生も、必ず最高傑作になる」と。

さあ、ペンを置こう。 そして、新しい一歩を踏み出そう。 あなたの最高傑作は、今日から始まる。
堂本晃聖 2025年、60歳の夏に